季刊「金融ビジネス」紙掲載記事


(2006年春号)

国際金融センター・ロンドンの新たなる挑戦

 3月22日、ゴードン・ブラウン財務相は、就任して十回目となる予算報告(Budget)を発表した。予算報告の主眼は、経済・財政の最新の見通しと、予算措置・税制改正案であるが、経済、産業に関する他の様々な政策もこれと合わせて発表されるのが通例である。

 今回発表された政策の中で目を引くのは、国際金融センターとしてのロンドンの地位をさらに強化するための、官民を挙げたイニシアティブであり、財務省から予算報告と併せてペーパーが公表されている[1]

 丁度これに先立つ3月13日に、日本で「金融商品取引法案」(いわゆる投資サービス法案)が国会に提出された。同法案は、証券取引法を大改正し、各種の投資サービスを横断して利用者保護ルールの整備を図ることをその中核としている。これは、英国において2000年に制定された「金融サービス市場法」(Financial Services and Markets Act 2000)をモデルとして検討が進められてきたものである。金融サービス市場法は、それまで各業態毎に置かれていた規制機関を統合して金融サービス機構(Financial Services Authority: FSA)を設立すると共に、各業態毎に分かれていた法制を一本化し、単一規制機関による、単一法制の下での規制という、世界でも例を見ない体制を創り上げたのである。

 金融サービスは、英国の主力産業であり、ロンドンは、ニューヨークに次ぐ国際金融センターとしての地位を保っている。ロンドンの強みの一つは、この金融サービス市場法という先進的な法制にみられるような、良好な規制環境である。シティ・オブ・ロンドンには自主規制の伝統があり、米国や大陸ヨーロッパと比較して、がんじがらめの規制より原理、原則を重視した、ソフトタッチの手法が好まれている。ロンドン市の委託による最近の調査においても、規制環境がロンドンの国際競争力の最も重要な要因の一つであることが示されている[2]

 また、ロンドンは、その歴史に裏打ちされた国際性を特徴としている。ニューヨークや東京と比較して、国際取引の比重が高い。それが、英国の経済規模が米国や日本と比べると遥かに小さいにも関わらず、ロンドンの金融センターとしての競争力が維持されている大きな要因である。財務省のペーパーによれば、英国は、国際的債券取引(流通市場)に関して世界の70%のシェアを占め、同じくクロスボーダーの銀行貸付について20%、外為取引について30%、店頭デリバティブ取引に付いて40%を超えるシェアを有し、いずれも米国や日本を大きく上回っている。

 しかし、金融の国際化がさらに進展する中で、金融センター間の競争は一層激しくなっており、インドや中国の台頭も見逃せない。ロンドンの国際金融センターとしての競争力を維持することは英国経済にとって死活的に重要であり、それが今回の官民を挙げた取組みの動機であるといえる。

 ただし、ロンドンが目指すのは、あくまでもロンドンの「市場」としての競争力であって、個々の金融機関の保護ではない。かつて、1980年代に「ビッグバン」と呼ばれる抜本的な市場の規制緩和がなされ、その結果、投資銀行業務はほとんど外国の金融機関に席捲されてしまった(いわゆる「ウィンブルドン化」現象)という歴史があるが、英国が重視するのは、マーケットという「場」の活性が保たれることであって、その場におけるプレイヤーの国籍は問わないのである。

 例えばロンドン証券取引所は、以前からドイツ証券取引所等海外の取引所による買収案の対象となっており、最近ではナスダックの接近が話題となっている。しかし、シティ・オブ・ロンドンの象徴として、世界でも最古の歴史を有する証券取引所が外国勢に買われることについて、政府においても業界においても、何ら保護主義的な観点からの反発がみられないことは驚きに値しよう。

今回の発表は、政府と、ロンドン市、それに各業界団体が共同して夏までに総合的な戦略を策定するということに留まっている。その戦略にはおそらく、更なる規制の改革や、税制上の措置も含まれるものと予想されるが、その中身は現段階では明らかになっていない。ただ、英国においては、他国に比べて、政府による金融産業への支援が熱心でないとの指摘は以前からなされていた。シティ・オブ・ロンドンは自律的に発展してきた歴史があり、業界の側も、政府とは一線を画す傾向が比較的強い。政府は、その干渉を最小限に止めるべきか、それとも、積極的に国内産業の保護育成を図るべきか、政府内でも方向性が定まっていない面があったのである。今回のような、政府と業界が一体となって金融産業の競争力強化に乗り出そうという動きはこれまであまり例の無いものであり、英国の金融産業の新たな局面を示すものとして注目されよう。



[1]HM Treasury: “Financial Services in London: Global opportunities and challenges” (March 2006)

[2]Corporation of London: “The Competitive Position of London as a Financial Centre” (November 2005)


2005年冬号)

事前予算報告の発表‐減速の兆候を見せる英国経済

 

 125日、英国財務大臣ゴードン・ブラウンは「事前予算報告」(プリ・バジェット・リポート)を発表した。事前予算報告とは、1997年の今政権の誕生以来行われている慣行であり、毎年3月に発表される予算報告(バジェット・リポート)に先駆けて、経済見通しや施策についての中間報告を行うものである。もっとも、最近は予算報告との間に質的な差異は少なく、事実上、第二の予算報告と化している。

 今般の事前予算報告において最も注目を集めたのは、財務省が今年度の経済成長率の見通しを、春の予算時の33.5%から、1.75%へと、大幅に下方修正したことである。近年財務省は、ほぼ常に民間機関より強気の見通しを示し、かつそれを実現してきた実績があったが、今回はその自負に若干傷が付いたこととなる。

 財務省は、見通しの修正について、3つの要因を挙げている。ひとつには、技術的な統計の変更があり、これは0.5%分成長率を押し下げる効果があった。第二に、より実質的な原因として、原油価格の急騰や、海外、特にユーロ圏内における需要の落ち込みという外生的要因がある。そして第三に、所得の伸びが予想より小さく、消費者の購買力が衰えたという、国内経済的要因である。

 ブラウン財務相が強調するように、1.75%という数字自体は、他の国々、特にユーロ圏と比べて特別に悪いわけではない。インフレ率、金利とも歴史的に低い水準で推移しており、依然として、53四半期連続のプラス成長という、抜群の安定性を保ち続けているのは事実である。だが、予想されていた景気の減速がついにはっきりとした形で現れてきたことは、今後の経済運営に黄信号を灯すものともいえよう。

 実際、経済の減速に対処する上で、政策当局の手足は相当に縛られているといってよい。原油・資源価格の高騰によるインフレ圧力は、イングランド銀行が直ちに金利を下げることを難しくしており、欧州中央銀行に至っては最近利上げをしたほどである。

そして、一層慎重な舵取りを迫られるのは財政である。経済成長の鈍化に伴い、自動調整機能(ビルトイン・スタビライザー)を通じて財政収支は悪化している。経済サイクルを通じて経常的財政収支を黒字に保つという「ゴールデン・ルール」の達成はいよいよ微妙となっており、これを遵守するため、今回の事前予算に伴う裁量的な財政政策は若干の引締めとすることを余儀なくされた。もっとも、産油国である英国は、最近の原油高によって恩恵を受けている面もあることに留意すべきである。石油会社は記録的な利益を計上しており、石油関連産業からの法人税収の増加が、経済減速に伴う一般的な税収減を一部相殺している。そして今回の事前予算における主要施策のひとつとして、北海油田からの利益に対する上乗せ課税の税率を10%から20%に倍増することが決定された。石油産業の利益の一部を、公共に還元することを狙いとするものである。また、政治的に受け入れやすい増収策として、各種の租税回避策(タックス・アボイダンス)に対する課税強化が引き続き行われている。驚かされるのは、こうした増税措置を、関連立法の提出前、租税回避対策に至っては発表即日に施行してしまうことである。当然、増税には立法措置が必要であるが、英国においては国会の授権の下、立法前に前倒しで税制改正を施行することが可能となっている。即日施行を行う理由は、施行まで時間があると「駆け込み」で税負担の低い内に取引を行ってしまう人々が増えることへの懸念である。その理屈は分るにしても、厳格な租税法定主義をとる日本からすればやや乱暴にも見える慣行に映る。

英国経済は全体として安定的・持続的な成長を続けており、また財政状態は、近年悪化しつつあるとはいえ、他の主要先進国と比べてはるかに健全である。しかし、現労働党政権の発足以来の強みであった経済運営が曲がり角に来ていることは確かである。これまでの経済政策における卓越した実績で評価を得てきたブラウン財務相は、ブレア首相の後継者としてほぼ確実視されているが、果たして首相の座を得るまでその実績を持続できるか、さらに首相になって以後の英国経済をどう運営していくか、彼の舵取りに一層注目が集るところである。


2005年秋号)

注目される英国の財政動向

 日本経済が現在及び将来において直面する最大の課題は、高齢化社会が進展する中で財政の持続性をいかに保つかということにあるが、これは程度の差はあれ、ほぼ全ての先進国にとって難しい舵取りを迫られる問題であり、英国においても例外ではない。

 英国はこれまで、比較的慎重な財政運営を続けてきたといえる。2005年における政府債務残高の対GDP比は、グロスで46%、ネットで39%と、それぞれ161%、81%の日本と比べてはるかに低く、主要経済先進国(いわゆるG7)の中ではカナダに次いで最も健全である。

しかし、この英国においても、近年、イラク戦に伴う出費や、医療等の予算の急増のために、財政が黒字から赤字に転落し、赤字幅も拡大しつつある。現在注目の的となっているのが、財務大臣ゴードン・ブラウンが自ら課した財政規律「ゴールデン・ルール」の達成の可否である。ゴールデン・ルールとは、政府は一つの経済サイクルを通じて、公共投資目的以外では借金をしない、というもので、日本における赤字公債禁止の原則に似ているが、単年度ではなく、経済サイクルを通算してその達成を判断する点が異なっている。つまり、景気の「山」において黒字を蓄積しておけば、その範囲内で、景気の「谷」において赤字を出すことも許されるわけである。英国は好景気に支えられて、2001年度まで、公共投資を除いた経常的財政収支において黒字を保ってきた。現在の経済サイクルは2006年中に終わると予想されているが、それまでに黒字の貯金を使い果たさず逃げ切ることができるかどうかが微妙な情勢となっている。春の予算において、財務省は今年3〜3.5%の経済成長を前提としているが、OECDや民間の研究機関は2%弱と予想しており、財務省の予測は楽観的過ぎるとも見られている。もし予想以上に歳出が増えたり税収が減ったりすれば、ゴールデン・ルールを破るか、これを守るために増税をするかという、政治的にはいずれも極めて厳しい選択を迫られることとなる。

しかし、国会が夏季閉会する直前の7月19日、ブラウン財務相は、技術的ながら、大きな意味を持つ発表を行った。財務省は、現在の経済サイクルは、1999年の半ばから始まったとこれまで解釈していたが、これを修正し、1997年前半にその始期をずらしたのである。これによって、97年度及び98年度の分の黒字も、現経済サイクルにおける財政収支に加算できることとなり、ゴールデン・ルールの達成可能性が俄然増大した。財務省は、これは客観的なデータに基づく技術的な変更に過ぎないとしているが、このタイミングでの都合のよい修正は、政治的な操作ではないかとの批判も呼んでいる。

 だがいずれにしても、問題となるのは次の経済サイクルである。現経済サイクルとは異なり、今度は赤字からスタートするわけであり、どこかで黒字に転換することが必要となる。財務省は、歳出の増加を上回る歳入の増加により、2007年度以降、経常的財政収支の黒字化を予測しているが、この予測は楽観的であり、現実には増税を行わざるを得ないのではないかとの論調が強い。

この発表と同日、ブラウン財務相はもう一つの、財政にとっては実質的により重要な発表を行った。英国では、毎年ではなく、二年毎に歳出予算編成(Spending Review)を行っており、次回は2006年の夏とされていたが、これを一年延期し、2007年に、「包括的歳出予算編成」(Comprehensive Spending Review)を行うこととしたのである。労働党が政権についた直後の98年に、全政権下での予算を抜本的に見直すため、「包括的歳出予算編成」が行われたが、今回は、現労働党政権誕生から10年を経る節目に、改めてゼロベースでの歳出の見直しを行い、次の10年の方向性を決めようという意図に基づいている。現在、三期目に入っているブレア首相は、遠からずブラウン財務相に首相の座を譲ると見られているが、この包括的予算編成は、ブラウン自身の政権を見据えた「マニフェスト」としての意味が込められるのではないかとも考えられている。


2005年夏号)

 日本経済はデフレから抜け出しそうで抜けきらない状態が続き、日本銀行の量的緩和政策の「出口」を巡る議論が活発となっている。問題は、その後の金融政策の枠組みであるが、先般、内閣府に設置された調査会より発表された「日本21世紀ビジョン」においては、インフレ・ターゲット(物価数値目標)の導入を検討するという一文が盛り込まれ、話題となった。

 インフレ・ターゲットは、デフレ対策の文脈において盛んに議論されてきたが、その一つのモデルとして注目されたのは英国である。

英国は、1997年に現労働党政権が誕生してから現在までの8年間、戦後史上稀にみるほど、好調な経済を持続している。51四半期にわたる連続プラス成長は、統計が始まって以来の最長記録である。その背景には様々な要因があるが、労働党のゴードン・ブラウン財務大臣がその座に着いて直ちに実施した数々の経済改革も一定の効果を上げていると考えられる。その中で最も評価されているのは、金融政策の改革である。

英国は長らく、景気の加速と失速を繰り返してきたが、その経済を常に悩ませてきたのは、インフレの乱高下である。インフレ率は19701980年代には20%台にも達し、またそのボラティリティ(不安定性)は主要先進国中最悪であった。金利変更の権限は財務大臣が握っていたが、金融政策が何を目指すのかが十分明確に定義されておらず、政治的な思惑に左右されるため、市場が金融政策の方向性を予測し信頼することが困難だったのである。

ブラウン財務相は、こうした金融政策の枠組みの抜本的な改革を実施した。その最大の柱は、金利決定権を中央銀行(イングランド銀行)へ移管し、金融政策運営が政治から独立して専門家の手により行われる体勢を整えたことである。しかしイングランド銀行は全くのフリーハンドを与えられたわけではなく、その政策運営においてゴールとすべき目標を、財務大臣が「インフレ・ターゲット」として明確に定めている。

英国のインフレ・ターゲットは、インフレ率を目標値の上下1%以内に収めるよう金融政策運営を行うことを求めている。そしてインフレ率がターゲットから上下1%を超えて乖離した場合、イングランド銀行総裁は、財務大臣に対して、その理由を説明する「公開書簡」を発出する必要がある。これは裏を返せば、イングランド銀行は、国民に対する説明を果たすことを条件として、一時的に政府のターゲットから外れた政策運営を行う柔軟性をも有しているということを意味する。政府は、国民の付託を受けた立場から、明確な目標を定める一方で、目標をいかに達成するかという具体的方法については、専門家集団であるイングランド銀行の金融政策委員会に委ねた上で、その説明責任を確保しているのである。このような、明確な目標、手段の柔軟性、説明責任の3点セットは、近年の英国行政の様々な分野に見られる手法である。

透明性を重視した新たな金融政策の枠組みは、金融市場の予見可能性、信頼を高めたと評価されている。98年以降のインフレ率はターゲットである2%の近辺に見事に収斂しており、現在まで、「公開書簡」は一度も発出されていない。インフレ率の低位安定化を実現したことは、現政権の経済運営における最大の実績の一つであり、経済の好調の基盤となっている。最近は、景気に失速の兆候が見られ、特に先般発表された本年第一四半期の成長率が大幅に下方修正されたことを受け、ほぼ二年ぶりの利下げへの期待が高まっているが、七月の金融政策決定会合においてはとりあえず見送られた。いずれにせよ、このように金利を通じて自国経済の「微調整」を行うことができるのは、単一通貨ユーロに参加しない最大の利点の一つであり、金融政策運営に自信を深めた英国のユーロ参加はますます遠のいている感がある。

 日本においては、インフレ・ターゲットに賛否両論があり、特に、現下のようなデフレ状況下では結局それを現実に達成する手段が無いのではないかとの議論がある。しかし、英国を参考に、中央銀行の独立性、裁量性を確保しつつ、明確なターゲットを定めることは、少なくとも金融政策の説明責任向上の方策として、検討に値しよう。