英国財務省について(最終報告)(2006年6月)

付章3 英国政府におけるスペシャル・アドバイザーについて

(注:本稿は2006年1月に執筆した。)

 

1 スペシャル・アドバイザーとは

  スペシャル・アドバイザー(補佐官)とは一般的に、政治任用(ポリティカル・アポイントメント)によって登用され大臣を補佐するスタッフを指す。補佐官は、大臣によって個人的に任用される点、政治的中立性の原則に服さない点等において、官僚(Civil Servant)と区別される。

  補佐官が初めて制度化されたのは、1974年、ウィルソン首相の下とされる。以後、各首相の下で運用されてきたが、現在のブレア政権においてはかつてないほどその役割が増大している。2002年7月時点での調査によれば、首相府の27名、財務省の10名を含む、総計75名もの補佐官が各省に在籍していたとされ、現在でもその人数は大きく変わっていないと考えられる。

  補佐官達の経歴は様々であるが、その出身は、政党のスタッフか、外部の専門家に大別できる。後述するいくつかの例にみられるように、政党スタッフ出身の場合、補佐官の職が、政治家への転身への「登竜門」となるケースが少なくない。(日本で、政治家志望者がまず議員の秘書や政策秘書を務めるのと似ている。)外部登用者の多くは学者、思想家であるが、ビジネス出身者もしばしば見られる。また、広報関係の補佐官には、元ジャーナリストを登用する例が多い。首相府首席補佐官のジョナサン・パウエルのように、官僚から補佐官への転向も、稀にみられる。(ただし、英国ではそもそも日本に比べ官民の間での人材流動性が高く、官僚といえども複数の職を渡り歩くことが通常である点に留意。)

 

2 首相府(No.10 Downing Street)のスタッフ

  首相府のスタッフは、ポリティカル・アポインティーである補佐官と、省庁からの出向者から構成されている。従来、首相府を取り仕切るのは首席秘書官(Principal Private Secretary)を初めとする秘書室(Private Office)であり、官僚出身者が中心であった。前述のようにウィルソン首相が1974年に補佐官の制度を導入し、政策室(Policy Unit)を創設したが、これはサッチャー、メージャーなど後の政権下でも発展を続け、官僚出身者を中心とする秘書室と、補佐官を中心とする政策室という大まかな役割分担が徐々に定着していった。そして、ブレア首相の下での現在の首相府では、特に、補佐官の影響力が圧倒的に増大しているといわれる。(なお、現在では、秘書室と政策室が統合され政策局(Policy Directorate)と呼ばれている。)

  首相府の政策スタッフは、内部でさらに分野毎に担当が分かれており、関係分野の省としばしば接触する。首相府は各省の政策に対して公式に介入する権限は持っていないが、首相にとっての重要事項に関わる政策については、彼等を通して首相府との調整を行うことが多い。この場合、首相府のスタッフは、首相の意向を慮り、それを各省の政策に反映させるよう働きかけるのである。

 

 <首相府の主な補佐官等>

ジョナサン・パウエル(Jonathan Powell

   首相の首席補佐官(Chief of Staff)。彼は、BBC及びグラナダ・テレビジョンで働いた後、外交官となる。1995年、彼がワシントンの在米大使館の一等書記官であった時に、ブレアのスタッフとしてスカウトされた。なお、彼の兄のチャールズ・パウエルは、サッチャー首相の下で長年、外政担当の補佐官を務め、甚大な影響力を有していた人物である。

リズ・ロイド(Liz Llyod

   副首席補佐官(Deputy Chief of Staff)。彼女は、ブレアが労働党の党首となった頃から、彼の研究員として仕えており、外交担当補佐官を経て現職に就いている。

アイヴァン・ロジャーズ(Ivan Rogers

     首席秘書官(Principal Private Secretary)。前職は財務省(Treasury)の審議官(Director)で、首相府のトップクラスのスタッフの中では唯一のキャリア官僚である。首席秘書官は伝統のあるポストで、ブレア首相によるChief of Staffの創設までは、これが首相府スタッフのトップであった。このポストはキャリア官僚を以て充てることとなっており、財務省出身者が就くことが多い。

デヴィッド・ヒル(David Hill

   広報局長(Director of Communications)。1991年から1997年まで労働党の広報局長を務めるなど、長年にわたる労働党のスタッフであり、下記のキャンベルの辞任後、一線に復帰することとなった。

アレスター・キャンベル(Alastair Campbell) 

   元広報局長。大衆紙のジャーナリスト出身。ブレア首相の最大の側近であり、首相府では、(本来の副首相より実力のある)「真の副首相」といわれるほどの権勢を振るった。2003年、対イラク開戦の根拠となった諜報機関の情報が誤っていたことが判明した際、彼が情報の歪曲を指示したとの疑惑がもたれ、後に辞任した。しかし、最近でも影でブレア首相に助言を行っていると言われている。

 

 

3 英国財務省(HM Treasury)における補佐官

 

英国財務省においてもスペシャル・アドバイザー(補佐官)の役割は極めて重要である。財務大臣ゴードン・ブラウンのブレインを長年務めてきたエド・ボールズを初めとして、ブラウン財務相と親しい補佐官達及び一部の官僚から成る「インナー・サークル」が政策決定に深く関与してきたといわれている。

現在、英国財務省には4名のスペシャル・アドバイザー及び、5名の経済アドバイザー(Council of Economic Advisers)がいる。実態としてはスペシャル・アドバイザーと経済アドバイザーの区別は明確でなく、省内では皆スペシャル・アドバイザーとして通称されている。

 

<財務省の主な補佐官・元補佐官>

エド・ボールズ(Ed Balls

元首席経済アドバイザー(Chief Economic Adviser)。オックスフォード大学卒業後、ハーヴァードに留学し、ラリー・サマーズ(後の米財務次官、ハーヴァード大学総長)等と知り合う。フィナンシャル・タイムズ紙の主任ライターとして勤務した後、1994年からゴードン・ブラウンの経済アドバイザーを務める。

ブラウンの財務相就任後は、彼のブレインとして、実質的に事務次官をも上回るともいわれる絶大な影響力を発揮してきた。イングランド銀行への金利決定権委譲等、ブラウンの実行した数々の経済改革はボールズの発案によるものと考えられている。選挙出馬のため2004年7月に財務省を去り、翌年5月の総選挙で当選し議員となっている。


  エド・ミリバンド(Ed Miliband

   エド・ボールズと並ぶブラウンの側近で、ボールズの退任後、暫くその後を継いで首席アドバイザーとなったが、やはり2005年5月の総選挙で出馬し、議員となっている。なお、兄のデビッド・ミリバンドは、ブレア首相の腹心として初代の首相府政策室長(Head of Policy Unit)を経た後、2001年の総選挙で議員となり、早くも閣外大臣を歴任する等、労働党の若手ホープの一人となっている。


  スペンサー・リヴァーモア(Spencer Livermore

   大学卒業後、労働党の経済調査室を経て、財務省のアドバイザーに就任。財務省を去ったボールズ及びミリバンドの後を継ぎ、現在、首席アドバイザーを務める。


  シュリティ・ヴァデラ(Shriti Vadera

    金融機関(Warburg Dillon Read)出身で、金融・産業界に明るく、特にPFIの推進者として知られる。彼女は慈善団体オックスファム(Oxfam)の理事も務めており、G7等の場でも、アフリカの貧困削減に熱意を燃やすブラウン財務相の政策に深く関与しているとみられる。

 

4 スペシャル・アドバイザーの役割と課題

スペシャル・アドバイザー(補佐官)は、今日の英国政府においては欠くことのできない地位を占めているといえる。財務省においても、案件を大臣に上げる際には、技術的・軽微なものを除いて、まず補佐官を通すことが通例となっている。

補佐官は事務方と大臣の間のインターフェイスとして重要な存在である。英国においては日本に比べて政と官の分離がはるかに厳格に守られており、事務方の政治との接触は極めて少なく、官僚が個別の政治家に根回しを行うなどといったことは無い。また、官僚は、大臣に政策を進言するに際しても、党派的な政治の領域に踏み込むことは慎むことが建前となっている。その結果、大臣に対する政治的観点からの助言は、専ら補佐官達が担うこととなるのである。補佐官の身分、役割について定めた規程である「Code of Conduct for Special Advisers」はこのように述べている。

「…補佐官は、政府の業務と政党の業務が重なり合う領域であって、官僚が関与することが不適切な事項について大臣を補佐するために雇われる。補佐官は、官僚に比べて、より政治的な関与が強く、より政治的な認識の上に立った観点から大臣に助言を行う、追加的な資源なのである[1]。…」

 

補佐官の事実上の影響力は強大であるが、公式な権限を有しているわけではない。その役割はあくまで「助言者」にとどまることが明確に定められており、官僚に対する指揮命令権限(Executive power)を持たないこととされている。ただし、ブレア政権の下でその例外が設けられ、首相府には最大3名まで、指揮命令権限を持った補佐官を置くことができることとなっている[2]。この規定は、首席補佐官のジョナサン・パウエルと、広報局長のアレスター・キャンベルに適用されていたが、キャンベルの辞任後、指揮命令権限を有する補佐官はパウエルのみとなっている。(キャンベルの後任のヒルにはこの権限は与えられていない。)

 

英国の行政は従来、日本の霞ヶ関同様、「官僚主導」として批判されてきたが、現政権では、政治的任用の補佐官達の役割が飛躍的に高まり、逆に「行政の政治化」という問題が指摘されている。すなわち、選挙によって選ばれた大臣が行政を主導することは当然であり、また、行政官僚は、政治的に中立なプロフェッショナルとして、大臣を補佐する立場にある。しかし、そのどちらでもない、いわば曖昧な存在である補佐官が、「助言」を超えて行政の「執行」にまで及ぶ力を行使することについては、懐疑的な見方も多い。

 

2002年7月19日に発表された、下院行政委員会の報告書[3]は、補佐官のあり方について公に議論を提起した。これは、運輸省の補佐官であったジョー・ムーア女史が、2001年9月11日の米国同時テロに便乗して都合の悪いニュースを発表することを指示したというスキャンダルがきっかけとなって、政府における広報のあり方について調査を行ったものである。この調査においては、ムーアと運輸省の事務方との軋轢にも光が当てられた。報告書は、ムーアが補佐官としての分を超えて行政事務の執行に関与したことが一連の不祥事の一因であると指摘し、補佐官の役割、官僚との境目の不明確さを批判している。(なお、この騒動の過程でムーアは補佐官を辞任。)

 

そして、補佐官のあり方についての疑問を決定的なものとしたのが、ブレア首相の広報局長であったアレスター・キャンベル氏を巡るスキャンダルである。キャンベルは、前述のように、ブレア首相の側近中の側近であり、補佐官としては例外的に行政的権限を与えられ、名実共に「首相の名代」として絶大な影響力を振るっていた。その専横振りについての批判を頂点に高めたのは、イラク戦を巡る疑惑である。英国は米国と共に、イラクに対する戦争を遂行したが、開戦の意思決定の強い根拠となった、イラクの大量破壊兵器に関する情報が誤りであったことが後に判明し、この諜報機関の報告書が政府により捏造されたものであるとの報道がBBCからなされた。そして、その報道の情報源として特定されたケリー博士(防衛省在籍の、大量破壊兵器の専門家)が、国会の委員会に招致された数日後、自宅近くで自殺するという事件が起き、独立委員会を設置して本件の調査がなされることとなったのである。キャンベルは、諜報機関報告書の捏造を指示した本人であるとの疑いが持たれ(後にその疑いは否定されたが)、疑惑に幕を引く形で補佐官を辞任している。

 

2003年4月に発表された、公務員倫理委員会の報告書[4]は、大臣、公務員、補佐官の役割を立法により明確化することを提言した。これを受けて、政府は「国家公務員法案」(Civil Service Bill)の草案を作成し、パブリック・コメントに付しているが、同法案のその後の取扱いはまだ定められていない。

 

5 日本への示唆

英国は、日本と同様の議院内閣制を採用し、その政治・行政体制は日本のそれと類似しており、モデルとして多くの示唆を与えてくれる。近年においても、副大臣・政務官の導入、党首討論(クエスチョン・タイム)、「マニフェスト」等、英国に倣って取り入れた制度が目立っている。

ただし、日本と英国においては歴史的・文化的な文脈が異なる面も多く、制度のみを模倣しても、同様に機能するとは限らない。例えば、英国型の補佐官を日本に導入していくとすれば、以下の点に留意すべきであろう。

 

 @ 公務員の「政治的中立性」

 英国で政治的任用による補佐官の必要性が高まったのは、裏を返せば、職業公務員の政治的中立性、政と官の分離が名実共に重んじられていることの表れであるともいえる。前述のように、英国では、官僚は基本的に大臣に対してのみ責任を負っており、官僚が政治家と接触したり、政治的な調整を行うことは無い。また、大臣に対して政策を進言する際においてすら、党派政略的な考慮は慎むものとされている。こうした状況においては、大臣が、自身の政治的意図を汲んで補佐してくれる忠実なスタッフを欲することは理解できる。また、補佐官による行政の「政治化」が批判されることもあるが、補佐官が正しく機能すれば、逆に、政治的な側面を彼等が引き受けることによって、職業公務員の中立性を守ることも期待されるのである。

日本でももちろん、建前として公務員は政治的に中立であることとされているが、官僚と与野党の政治家との接触は日常的に行われており、英国と比較すれば、既に官僚が深く政治に組み込まれているといえる。そして、その中で培われる政治的感覚こそが、上級官僚に期待される能力のひとつとなっている。政治任用による補佐官の導入により、徐々に官僚を政治から「解放」していくということも方向性として考えられよう。逆に、政治的感覚をも持った官僚を、補佐官へと登用していくことも考えられる。

 

 A 人材の流動性

   日本においては、官僚は、大学を卒業してすぐに省庁に就職し、ほぼ生涯を通じてその省庁に務めることが原則となっている。各省庁の人事もこれを前提とし、下から上がってきた内部登用者達が順々に局長、事務次官といったポストを回っていく形となっている。しかし英国では、各人が複数の省の間や、あるいは民間との間を(出向ではなく、転籍という形で)渡り歩くことが通常であり、省の幹部レベルに外部からの人材を登用することも全く珍しくない。

英国のように人材の流動性が高い官庁組織においては、結局「メリット採用」と「政治的任用」の差も決定的なものではなく、外部から来た補佐官が影響力を行使することに対する違和感も比較的小さい(それでも、英国では問題視されているが)。これに対して、日本の官庁のような「閉じた世界」に、突如外部から人材を据えつけた場合、既存の職員との軋轢はより大きなものとなる可能性がある。もっとも、逆にそれだからこそ、新風を吹き込むものとして大きな効果を上げることもありうる。

 

 B 首相・大臣のリーダーシップ

   英国における補佐官達の役割、特に首相府におけるそれの拡大は、サッチャー政権や現在のブレア政権における、首相・内閣のリーダーシップの強化、いわゆる「大統領型」体制と関連している。

   英国の議院内閣制においては、首相及びその大臣達で構成される内閣に名実共に権限が集中している。英国では特に、大臣(及びそれを補佐する副大臣達)のリーダーシップは強く、官僚はその判断を尊重するのが当然であるし、他省庁との調整や議会の説得も大臣の役割である。大臣がこうした重責を担うには、個人的なスタッフの充実が必要であり、ブラウン財務大臣の腹心であったエド・ボールズなどがその好例といえる。

これに対し日本の場合、同じ議院内閣制でありながら、歴史的に、与党、内閣(大臣)、そして官僚の三者間で実質的な権力が分立していた。重要な政策について、所管大臣ではなく、与党の特定の議員が実質的な決定権を持つというケースが多くみられ、こうした場合の与党との調整役は主に官僚が果たしてきたのである。こうした状況では、英国の場合と比べて大臣の権威は低いものとならざるを得ず、大臣の権威が低ければ、ましてその補佐官が活躍する余地は少なくなるであろう。しかし、日本でも最近では首相のリーダーシップが飛躍的に高まり、いわゆる官邸主導、トップダウン型の手法が徐々に定着しつつある。また、これに伴い、各省の大臣も、個性を増しているように見受けられる。こうした流れを強化する一環として、補佐官を活用していくことは考えられよう。

 

6 結論

  英国におけるスペシャル・アドバイザー(補佐官)の活躍は、首相及び大臣の政策立案能力・リーダーシップの強化、政策インプットの多様化という意味において、日本の改革の方向性のひとつとして注目に値するものといえる。ただし、同様の制度の導入にあたっては、日本と英国の行政における背景の相違を考慮する必要があり、特に、補佐官制度は英国でも「行政の政治化」、少数の「インナー・サークル」による行政の支配という批判を招いていることには十分留意すべきである。

  より広く、政策インプットの多様化につながる改革として、英国にみられるようにまずは官庁間、官民間の人材の流動性を高めていくということが考えられる。これは、多様なバックグラウンドを持った人材の官庁への登用、あるいは官僚自身の能力・経験の多様化を通じて、行政全体の政策立案能力を高めていくことに資するものであり、また、補佐官のような外部任用を増やしていく上での、環境を整備することにもつながると考えられる。

 



[1] Para.2, Code of Conduct for Special Advisers

[2] Article 3(3) Civil Service Order in Council

[3] Select Committee on Pubic Administration Eighth Report

[4] “Defining the boundaries within the Executive: Ministers, Special Advisers and the permanent Civil Service”, Ninth Report of the Committee on Standards in Public Life


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