英国便り

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「英国便り」(2003年7月〜2004年2月)へ


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(18/08/2004)

日本では、連日猛暑が続いているようですが、英国では、幸い、昨年の夏ほどの異常な暑さとはなっていません。何日か、最高気温が30度を超える日がありましたが、おおむね最高気温は20度台におさまっており、20度台前半の日もしばしばあります。また、夜になると急に肌寒くなることもあるため、旅行に来る場合は注意が必要であるといえます。

7月の下旬に国会が閉会し、大臣達がロンドンから去るのに合わせて、官庁も一斉に休暇の期間に入っていきます。イギリス人は、フランス人やドイツ人ほど長く休暇を取らないと言われていますが、それでも夏の時期は、2週間程度の休みは一般的です。Treasuryでは、面白いことに、上の階層に行くほど休みを長く取る傾向があり、課長レベルでは3週間休む人も多く、トップのPermanent Secretary(日本でいうと事務次官)のガス(Gus O’Donnel)に至っては1ヶ月も休んでいます。幹部の場合、普段は忙しくなかなか休日を取れないため、大臣がいないこの時期にまとめて休むということなのかもしれません。7月最後の日、事務年度の一つの区切りも兼ねて、Treasuryの敷地内の大広間と中庭を用い、私の所属する局の主催するカクテル・パーティーが開かれました。休暇に入ったばかりであったガスは、カジュアルな服装で駆けつけ、私や、私の招いた日本人の友人達とも気さくに話してくれましたが、もう頭は仕事から離れているのか、話題はスポーツやホリデイのことばかりでした。そして、彼は、パーティーの開会の挨拶をしました。「みんな、これまでの一年間よくやってくれた。夏の間にたっぷりと休んで欲しい。私も、これからカナダに行き、激流をいかだで下ってくる。だから、もしかしたら皆さんはもう私を二度と見ないことになるかもしれない。しかし、それは皆さんにとって昇進の機会となるだろう(笑)。」こうした、オープンなイベントを庁舎内で開催できるというのは羨ましいことです。霞ヶ関のコンクリートに囲まれた日本の官庁はとてもそのような雰囲気ではありません(というか、誰も来たがらないでしょう)。

日本の場合も、夏休みの確保は比較的尊重されていますが、それでも1週間が相場であり、特に忙しい場合は当然、それも難しくなります。2週間休む人はほとんどおらず、時たまいてもそれは相当の強者と見なされるでしょう。また、日本では、夏休み、年末、ゴールデンウィークという特定の時期を除き、全く脈絡のないときに有給休暇を取ることは奇異な目で見られますが(おそらく唯一の例外は新婚旅行)、こちらではそのようなことはもちろんないので、むしろ、旅行先が込み合う時期を外して休暇を取る人もいます。

私も日本人的な感覚が抜けず、こちらに来てもあまり長い休暇を取ったことがありません。この夏もまだ3日間休んだだけですが(それでも、日本の同僚からすれば十分だと言われそうですが)、これを利用してイングランドのカントリーサイドを周遊して来ました。イングランドの中央部にあるPeak District, 「嵐が丘」等の文学作品の舞台として有名なYorkshire Dales, それに日本人にも人気のあるLake Districtという三つの国立公園を回る忙しい旅でしたが、こうした国立公園においては、自然の丘や湖のみならず、広大な農地や、街並みに至るまで、景観の保持に実に心が配られていることを感じます。

http://www.geocities.jp/weathercock8926/england3.html

この時期は、日本からの来訪者が多い時でもあります。私は幸い、大使館に勤めているわけではないので、「外遊」のようなものに付き合わされることは無く、関わることがあるのは純粋な調査目的の出張者が中心なので、自分にとっても良い勉強となります。先日は、日本の政府系シンクタンクに所属する研究者数名が、英国の金融法制を調査するために、まさに私の直属の課長を訪問し、私は説明者側として同席するという興味深い出来事もありました。(もっとも、私の課長はたまたま休暇をずらして7月に取得していたため、8月の最中に対応することができましたが、一般的には、この時期の海外調査は相手先がつかまらないリスクが高いといえます。)

日本人は概して、英国の人々などと比べると、海外の事例をよく勉強しており、特に欧米の制度に関する調査は驚くほど充実しています。金融法制においては、特に、英国の「金融サービス市場法」に対する関心は未だに非常に高いことを感じます。英国の金融法制の特徴は、日本でいえば銀行には銀行法、保険会社には保険業法、証券会社には証券取引法と、業態毎にそれを規制する法律が異なっているのに対し、「金融サービス市場法」という単一の法体系がすべての金融サービスに適用され、そしてFSAFinancial Services Authority:金融サービス機構)という単一の規制機関がこれを執行していることにあります。このような業態包括的な法制は、英国以外の国には見られません。こうした法制の実際上の利点の一つは、新しい種類の金融サービスを規制する必要が生じた際に速やかに対応できることにあります。これに対し日本の場合は、昨今問題となっている外為証拠金取引のように、既存の規制法が無い場合は、全く新しい法制度を一から構築しなければならないということになります。

英国のような法制を日本でも導入すべきではないかという議論は以前よりなされており、その一つの産物が、私自身深く関わっていた、金融商品横断的な消費者保護法である「金融商品販売法」の制定でした。この法律が現実にどの程度役立っているか定かではありませんが、これに至る議論は、それまで銀行、証券、保険といった業態間の利害調整が中心であった日本の金融行政に、消費者保護という視点を強く打ち出した点で画期的なものであったと考えています。英国では、金融業態間の制度的な垣根が低いこともあって、業態間の利害調整という観点はほとんど見られず、金融行政とは、全業態を含んだ「業界」(industry)と、「消費者」(consumer)という二大対立利益のバランスを図る作業であることが一般的な認識となっています。

今回、英国財務省に出向するに当っては、こうした個人的な関心もあって、まさにこの金融サービス市場法を担当する部署を希望したわけですが、実際にその詳細を垣間見ると、英国のような仕組みを日本で機能させるためには様々な課題があることも実感されてきます。一つの法制で、多様な金融サービス全てに対応しようとすれば、その法制は相当程度柔軟である必要があります。英国では、国会で審議される法律のレベルでは大まかなことしか定めず、規制の詳細については、財務省の定める省令及び、FSAの定める規則に極めて広汎な委任が行われていますが、日本の厳格な立法手続の中ではこれを行うには限度がある(要するに、内閣法制局を通らない)といえるでしょう。また、英国の規制機関であるFSAは、実は民間会社で、極めて高い政治的独立性を確保されている一方で、ルール違反に対して無制限の制裁金を課したり、消費者への弁償を命令したりといった、甚だ強大な権限を有し、効果的な市場監視機能を発揮していますが、これは日本では憲法上困難と考えられます。

成分憲法を持たず、「国会の絶対性」(Parliamentary Sovereignty)を伝統とする英国では、基本的には国会で法律を通せばどのようなことでも可能であり(ただし、近年では、ヨーロッパ法の制約によりこの原則は揺らいでいる)、省令で法律を改正したり、あるいは税制改正法案が成立する前から増税を執行したりといった、およそ日本では考えられないような権限も国会から行政府に委任されています。一般的には、行政府の権限に対する国会のチェック機能を高めていくことが民主主義の強化と考えられていますが、逆に、英国では、国会の権威が極めて高いために、その国会の委任を通じて、行政府の裁量権も強くなっている面があることは興味深いところです。また、金融のような変化の激しい分野では特に、政治がどこまでを日常的にコントロールすることが、全体として最も国民の利益にかなうのか、バランス感覚を持った議論が必要であるように思われます。


(15/07/2004)

夏至は過ぎ、日照時間は下り坂に向かっているわけですが、まだまだ日の長さは一向に衰えておらず、夜9時過ぎに美しい夕焼けの空を眺めることができます。昨年のような突発的な猛暑もまだ来ておらず、7月になっても秋のように涼しい英国本来の気候が続き(晴れていると思うと突然雨が振り、またすぐ晴れるのも典型的なBritish weatherですが)、過ごしやすい日々です。国内各地を旅行するにも適した時期です。

 エイヴベリー/ケルムスコット

 シルヴァーストーン

先月、かなりの日数を割いて英国財務省内での経済学研修を受けました。英国財務省では様々な研修(training)が提供されており、IT系や、語学、professional writingのような実用技能、public finance等の業務に直結する知識に至るまで、多様なメニューがあります。職員は、自分のスケジュールや関心に応じて、自主的にこうした研修を受講することができますが、当然、自分の勤務時間が割かれるため、業務との両立に気を配る必要があります。

経済学は人気のあるコースで、ミクロ、マクロを合わせると約20日間、朝から夕方まで行うため、全体としては大学の講義の1学期分ぐらいには優に相当する密度があります。基本的には、非経済学部出身者を対象としたものですが、受講者は少人数で、大半はある程度の前提知識を有しています。講師は、London Business School, Imperial College, Cambridgeといった一線級の大学から派遣されますが、大学側もこうしたcorporate trainingをひとつの資金源としているため、講義はよく工夫されています。学校の授業に比べ、実際の政策により大きなウェイトが置かれ、活発な議論を楽しむことができます。

私も財務省に数年間勤務しているものの、法学部出身で、学問としての経済学に十分通じているわけではありません。だからこそこうした研修も特に有益なわけですが、私に限らず、日本の行政官は法学部出身者の割合が非常に高く、代表的な経済官庁である財務省においてすらそれは変わりません。イギリス人からすれば、それはやや奇妙に映るかもしれません。英国では、大学の法学部出身者は一般にlawyerと呼ばれ、実際に法曹の道を歩むのが普通だからです。英国財務省では、職員の出身学部は多様ですが、やはり経済学部出身者の割合は日本と比べかなり高いと思われます。(ただし、英国財務省は、日本でいえば内閣府(旧経済企画庁)が担当しているマクロ経済政策をも所掌しているという違いはある。)

日本の官庁では、財務省も含めて、法令の制定作業が業務のかなりのウェイトを占めているため、法学部出身者が多いことにはそれなりに合理性があります。しかしそれにしても、経済学の教育を受けていない人々が経済政策を決めることは適当なのか、という素朴な疑問を抱く人も多いでしょう。もちろん、最低限の経済学的知識はあることが望ましいに違いありませんが、他方で、経済学の知識が高ければ高いほど、経済政策立案に優れているといえるのでしょうか? もしそうだとすれば、経済学者に政策を決めさせるのが最適ということになります。この研修の中で、ケンブリッジ大学から来た講師がまさに、経済学者に国政を委ねるべきか否か、という問いを投げかけたのです。実際、アメリカでもイギリスでも、政策を最終的に決定する大統領や閣僚は別として、彼らのアドヴァイザーには常に著名な経済学者が就いています。日本でも、異例ながら、経済学者の竹中氏が経済財政担当大臣及び金融担当大臣を務めており、先の参院選で晴れて政治家となりました。日銀審議委員や、経済財政諮問会議議員等も含め、経済学者の政策決定に果たす役割は増大しているといえます。

もっとも、アメリカ、イギリス、日本、いずれの国でも、民主的に選出される大統領、首相といった首脳や、閣僚の大半は、特に経済学の素養のない人々であるのが普通であり、経済学者が一国の経済政策の完全な決定権を握ることは通常はあまり考えられません。これに近い状態が実現するのが、経済危機に瀕した国にIMFが融資を行い干渉するケースですが、実際にはIMFの政策がうまくいくことは稀であり、多くのケースではその国民の反発を招くだけで終わっているとも言われています。経済学が「魔法の杖」とならない理由のひとつは、現実には様々な政治的・社会的制約があり、理論通りの政策を簡単には実行できないことです。しかしそれ以前に、そもそもその「理論」自体が正しいのかどうか、という問題が常につきまとうのではないかと思います。例えば、日本経済が低迷に直面した際、経済学者の中でも、財政出動をすべきだという意見と、すべきでないという意見に分かれました。それぞれの立場に、それなりの理論的根拠がありますが、相反する見解である以上、もし一方が正しければ、他方は間違っているはずです。割り切って考えれば、経済理論とは説明の「道具」であって、それ自体が答えではなく、どの「道具」を用いるかの判断は政策決定者に委ねられているということかもしれません。そして、政策決定は、国民に選ばれた人が行うというのが民主主義国家の理念です。IMFの場合には、IMFの政策が正しかったか否かはさておき、その政策で影響を受ける国民に対する民主的正統性を欠いていることが大きな問題だったのではないかと思われます。

さて、経済低迷に対し、日本の民主主義に基づく政策決定は、90年代を通じて、財政出動による景気刺激策を選んできました。いわゆる「ケインズ経済学」(Keynesian economics)という道具に頼っていたわけですが、この道具の今日における有効性には甚だ疑問が呈されています。ケインズは、戦間期に英国財務省のアドヴァイザーを務め、彼の議論に基づく裁量的財政政策は、1930年代の不況を通じて主流となっていきました。そのような意味では英国財務省はケインズ経済学の本家ともいえるわけですが、近年では英国は早々と裁量的財政政策には背を向けており、先進国の中では日本がほぼ唯一かつ最大の信奉者と化していたのは皮肉なことです。

今週、英国財務省はComprehensive Spending Reviewを発表しました。Spending Reviewとは、2年毎に行われる、各省庁の歳出予算の枠の決定作業です。日本では、毎年末の予算において、歳入及び歳出の見積もりが同時に決められますが、英国では、毎年春のBudgetで歳入について決定する一方、歳出はこれと別の夏の時期に、かつ2年毎に決定するわけです。決定の直前は、主計局に相当する部局は非常に繁忙となり、各省庁との間で綱引きが繰り広げられるのは、日本と同様です。しかし、こちらでは大臣間の実質的な折衝が中心であり、日本のような族議員と官僚の応酬といったことはありません。英国の財政制度は、基本的には日本と似ているのですが、現政権下で様々な改革が企てられており、財政規律に関するルールのほか、発生主義会計(Resource Accounting and Budgeting)の導入や、未使用の予算の繰越しの容認(End Year Flexibility)など、丁度日本の一歩先を行った、興味深い試みがなされています。

日本もようやく景気が本格的に回復し始め、不良債権等の構造問題も解決の目処が立ってきましたが、膨大な財政赤字については全く道は見えておらず、現在ではこれが日本経済の最大のネックであるといえます。今日の事態を招いたのは、「民主的」な決定の結果にほかなりませんが、現在の政策決定に関与しえない後世の世代に累を及ぼすような施策を取り続けることは、真の民主主義とはいえません。「財政民主主義」を実現できるかどうか、国民の意思が問われているといえます。


(17/06/2004)

  英国も最近は、太陽がよく照り、暑い日が続いています。公園はピクニックをする人達で一杯です。まもなく、6月21日の夏至の日(Summer Solstice)を迎え、日照時間はピークに達します。夜10時を越えても、西の空にまだほのかに明るさが残るような状況です。夏至といえば、シェイクスピアの喜劇「夏の夜の夢」(A Midsummer Night’s DreamMidsummer nightとは夏至祭の夜のこと)が今年もリージェンツ・パークの野外劇場で上演されています。この作品は野外劇場に非常に適しており、以前、ケンブリッジのキングズ・カレッジの広大なFellow Gardenでの上演を見たときには、役者の質自体はそこそこでも、夜の闇がおりてくると、まるでイングランドの森に迷いこんだかのような幻想的な雰囲気に満ちていました。

 この時期は一年で最も気候が良い時期であることもあって、スポーツ等のイベントも盛んです。6月の下旬に開催されるウィンブルドンのテニス世界選手権は有名ですし、その少し前、6月の半ばには、アスコット競馬場でロイヤル・アスコット(Royal Ascot)という競馬が開催されます。英国の公務員の共済組合のようなもののレクリエーションとして、このロイヤル・アスコットへのツアー企画があったので、折角と思いこれに参加してみました。丁度自宅のすぐ裏にこの組合のセンターがあり、そこからバスが出発しました。アスコットは、王室の城のあるウィンザーに近く、緑に囲まれた、典型的なイングランドのカントリーサイドにあります。バスがアスコットの駐車場(駐車場も芝生で覆われている)に到着すると、既に多くのグループがピクニックを始めていました。ピクニックというのは屋外に皆で集まり食べたり飲んだりを楽しむもので、この季節は公園のあちらこちらで見かけます。日本でいえば桜の季節の花見がこれに近いかもしれません。アスコットのような場所で行うピクニックは結構気合が入っていて、テーブルや椅子を出して、テーブルクロスを敷き、紙コップ等ではないきちんとしたグラスや食器を使って、ワインやシャンパンを開けています。また、「ピムス」(Pimms)というフルーツパンチのような飲み物も、夏の名物です。

   ロイヤル・アスコットの特徴は、何といっても皆の服装です。会場はチケットの区分に従っていくつかのエリアに分かれていますが、チケットのランクに応じて服装にも変化が見られるのが面白いところです。一番安い「Silver Ring」というエリアでは、軽装の人もちらほらいたりするのですが、「Grand Stand」となると、ほとんどの人が正装し、女性は帽子を被っています。さらに、一部の招待客しか入れない「Royal Enclosure」となると、男性は皆、燕尾服にシルクハットという、今日ではイギリスでもあまり見かけないような格好で統一されています。女性はさながらファッションショーのようで、到底、街中では着用できないような帽子の奇抜さを競う人も見られます。しかしさらに上のランクがあり、馬主及び調教師(及びその関係者)専用の区画が設けられています。パドックで馬を品定めするときも、他の観客が柵の外から眺める中、彼らのみはパドックの中に入っていくことが許されます。(一番安い「Silver Ring」の場合はそもそもパドックに近づくことさえできない。)しかし、その馬主達さえもが並んで何か拍手しています。見ると、エリザベス女王でした。

   こうしたアスコットの会場のあからさまな区分の仕方には、イギリスの伝統的な階級社会の縮図を見せられているような気もします。以前、ケンブリッジ大学に留学していた時も、カレッジのしきたりとして、学生の身分と教授の身分が非常にはっきりと区別されていました。例えば、食事は皆同じ大広間で取るのですが、教授用のテーブルは学生のテーブルより一段高くしてあり、専用のビュッフェが設けられています。また、学生はカレッジの庭の芝生を横切ってはいけないが、教授は堂々と歩いて横切ることができる、というルールもありました。イギリスの貴族的社会というのは、日本人からすると少し違和感を感じさせるぐらい、クラスの差をあえて視覚的にも明らかになるようにしているように思えます。(もっとも、これはあくまで、旧時代の慣習が残る領域における話であり、政治、行政、ビジネスといった世界では、むしろ日本の方が権威主義的であるような気がします。)

 競馬は6レースありましたが、運が悪く結局全敗でした。他の人たちがどのくらい勝っていたのかよくわかりませんが、やはりこういうイベントでは勝敗は二の次のようで、耳に赤鉛筆を挿しているような感じの人はいませんでした。

 終了後、まだ居残ってたむろしている観客達が、生演奏に合わせてイギリスの伝統的な唱歌を歌います。定番のRule Britanniaに始まり、最後はLand of Hope and Glory、そしてGod Save the Queenで締めくくります。Land of Hope and Gloryというのは、イギリスを代表する作曲家エルガーの「威風堂々」のサビの部分に歌詞を付けたものですが、Rule Britanniaと共に、ロンドンの夏のクラシックイベント「Proms」の最終日に歌われるのが恒例となっています。ちなみにPromsというのは、毎年7月半ばから9月半ばまで約2ヶ月間に渡ってほぼ毎日、ロンドンのRoyal Albert Hallで行われるクラッシク音楽の祭典で、特にその最終日(The Last Night of Proms)はお祭り騒ぎとなるので有名です。私も以前これに行ったことがありますが、ホールを埋め尽くした観客が一斉に立ち上がって歌いだす中にいると、イギリス人ならずとも、その愛国心の熱気に包まれてしまいます。Rule Britanniaの歌詞など、帝国主義的な感じがして少し抵抗があるのですが、祭りの雰囲気というのは、そういう理屈を忘れさせるような力があるように思われました。このRoyal Ascotでの合唱は、もちろんPromsほど大規模なものではありませんが、着飾った老若男女がシャンパンのボトルを片手に一斉に国旗を掲げて歌う様子は、島国の国民の独特の団結心を感じさせるものがあります。

 そして、彼らの国民性が最も顕著に表れるのは、やはりサッカーをおいて他にありません。(とはいっても、サッカーやラグビーといった国別の競技の場合は、「イギリス」というチームは存在せず、伝統的に、イングランドやスコットランドといった地域毎に分かれて戦うのが面白いところで、その意味ではむしろイギリスという国家の不統一性を象徴しているともいえます。)
 イングランドの熱狂的なファンが「フーリガン」と呼ばれる暴徒と化すのは有名な話です。現在、「ブラジル抜きのワールドカップ」とも言われる欧州選手権(Euro2004)が行われていますが、イングランドの試合があるときはどこの職場、パブでも皆がテレビの前に鈴なりになっています。先日の初戦では、宿敵(とイングランド人は思っている)のフランスを相手に、終了直前まで1対0でリードし勝利を目前にしながら、ロスタイムの1〜2分の間にジダンの2本のゴールでまさかの逆転を喫するという最悪の負け方をしたため、それはもう大変な騒ぎでしたが、フーリガン対策には徹底的に力を入れていることもあって、「マイナーな」騒ぎだけで済んだようです。(先ほどの2戦目では幸いスイスに3対0で快勝しましたが、自宅の向いにあるテレビ局から怒涛のような歓声が上がっていました。)しかし、前回のワールドカップを見れば、日本人も、(暴動こそ起こしませんが)熱狂ということでは全く引けをとらないのではないかと思います。


(02/05/2004)

 5月1日、EUEuropean Union)に新たに10カ国が加盟し、EUは一挙に15カ国から25カ国へと拡大しました。EU1952年にドイツ・フランス・イタリア・オランダ・ベルギー・ルクセンブルクの6カ国で発足した欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)を起源とし、1973年にデンマーク・アイルランド及びイギリスが参加し、1981年にギリシア、1986年にポルトガル・スペイン、1995年にオーストリア・フィンランド・スウェーデンと拡大を続けてきました。今回の10カ国同時加盟は、EU史上最大規模の拡大であるのみでなく、東西冷戦で引き裂かれてきた旧共産圏の諸国が名実ともに西側諸国と一体として「ヨーロッパ」に復帰するという大きな歴史的・政治的な意味を有しています。さらに、ルーマニアとブルガリアが現在加盟交渉中であり、トルコとの加盟交渉を開始するかどうかの判断が今年中になされる予定です。EUは究極的にはどこまで拡大しうるのか?「ヨーロッパ」という概念には、明確な定義がありませんが、地理的・文化的に、自ずからその範囲には潜在的な限度があると思われます。拡大前日の4月30日に、英国財務省内でもEU拡大に関する部内セミナーが開かれましたが、そこで私がこの問いを問うたところ、政策担当者も、本音ではその「限度」を認識しているようでした。今回加盟する10カ国をヨーロッパに含めることについてはそれほど異論がないでしょうが、トルコの加盟申請は「ヨーロッパ」という概念に対する大きな挑戦となるでしょう。1000年に渡って東ローマ帝国の首都であるコンスタンティノープル(現在のイスタンブール)を擁し、歴史的にはむしろヨーロッパの中心であった、ともいえるかもしれませんが、現在はイスラム教国であるという事実は無視しえない要素です。もちろん、ヨーロッパ内でも様々な宗教が信仰されていますが、私は個人的には、究極的にはキリスト教が「ヨーロッパ」の精神的・文化的土台になっているのではないかと考えており、EUがこれを超えて拡大することができるのか、その判断が注目されます。

 EUの拡大は当然、イギリスを含めた既存の加盟国に大きな影響を及ぼします。最もセンシティブな問題はやはり、労働者の流入です。今回の新加盟国のうち、マルタとキプロスを除いた東欧8カ国については、既存加盟国は最長7年間、労働者の移住を制限できることとなっていますが、イギリスは基本的に、一定の条件の下、労働者の移住を認める政策を採ることとしています。英語を母国語とするイギリスは、歴史的に、世界から(特にアメリカから)の人的資源の流入により大きな便益を受けてきたと考えられ、政府も基本的に、移民はイギリスにとってプラスである、という立場をとっています。他方、新加盟国の側が加盟によって巨大な便益を享受するのは確実と考えられますが、昨年の冬にマルタへ旅行に行った際、マルタ人のガイドが、マルタ人の多くは加盟を嫌っている、と言っていました。人の移動が自由になれば、太陽の照らないイギリスやドイツから人がたくさん流入してきてマルタ人の仕事が無くなってしまう、というのです。通常は、移民問題とは経済的により貧しい国から豊かな国への人口の移動を指すものですが、マルタ人からすれば、誰がこの地中海の楽園から離れることを望むだろうか、というわけです。

 イギリスのヨーロッパにおける位置づけも、非常に微妙なものがあります。古くは中世から、イギリスと大陸ヨーロッパ諸国、特にドイツ・フランスとの、盟友でもありライヴァルでもある関係の複雑さは、とても語り尽くすことができません。イギリス人にはそもそも、EU加盟国であるとはいえ、自分達が「ヨーロッパ」の一員であるという意識が希薄なところがあります。日常的な会話でも、「ヨーロッパへ行く」とか「ヨーロッパでは○○だが、イギリスでは××である」といった表現をよく聞きます。ヨーロッパとは大陸諸国であり、自分達は少し違う、という暗黙の認識があるのでしょう。こうした態度は政策にも表れており、大陸諸国とは一線を画す一方で、アメリカとの関係をより重視するという傾向があります。イギリス人にとって「ドーヴァー海峡は大西洋より広い」と言われる所以です。実際、EU(当時はEC)に加盟したのはECSCの発足から20年以上も経った1973年のことであり、現在も、単一通貨「euro」の採用を見送っています。ヨーロッパ統合の発端であり、常に統合の深化の原動力であり続けたのはドイツとフランスですが、外交巧者のイギリスといえどもEU内の力学においてはこのドイツ・フランスの枢軸に対し中々主導権を握れずにいるようです。

 英国政府、英国財務省の業務においてもEUとの関係は常に大きな要素です。私の関与している金融関係の法制度についても、いわゆるSingle European Marketの整備が最も浸透している領域であり、おびただしい数のdirectivesEC指令)が制定され国内法制を相当程度規定しています。日本や他の国でも当然、国際条約との関係は常に考慮されますが、EUにおける共通法制の果たす役割は、国際条約とは比較にならないほど大きなものがあります。非常に大雑把にいうと、ドイツやフランス等の大陸諸国は規制重視、イギリスは市場原理重視という傾向があります。特に、金融サービスについては、イギリスは世界でアメリカに次ぐ国であり、ヨーロッパではナンバー1であるという自負が強く、ロンドンの国際金融センターとしての競争力維持を最も重視しています。ここで注意を要するのは、イギリス政府が重視するのはイギリス企業の競争力よりむしろ、ロンドンという市場自体の魅力であり、そこに外国のプレイヤーが参入してくることは基本的に歓迎しているということです。(いわゆるウィンブルドン化現象。テニスのウィンブルドン大会は最も歴史があるが現在ではイギリス人選手はほとんど活躍していないことになぞらえたもの。)

 EU拡大に際して移民問題と並んで重要なのが財政問題です。EU内では共通農業政策(CAP, Common Agricultural Policy)の下、農家に対する財政的補助が行われています。EUの固有の予算の大半はこのCAPに充てられています。また、域内でより貧しい国・地域に対しては補助金が分配されています。新加盟国は現加盟国に比べて相対的に貧しいため、当面はEU財政の純受益国となると考えられ、また、ポーランドのように大きな農業人口を抱える国の加盟はCAPにも大きな影響をもたらします。イギリスは、EU財政において伝統的に純拠出国、つまり拠出が受益を上回っており、これがEUに対する不満の一つとなっています。特に、CAPに対しては最も批判的です。現在継続中のWTOドーハ・ラウンドにおいても、CAPの改革による農業保護削減は大きな課題でした。EUは関税同盟であり、共通通商政策はEUの存在意義の要といっても過言ではありません。これは、WTO体制下において、EU全体があたかも一つの国として扱われ、域内では関税はゼロであり、域外に対しては全加盟国が共通の関税を適用する、ということです。WTOの交渉においては、個々の加盟国ではなくEUが交渉主体となります。以前のウルグアイ・ラウンドでは、「二強」すなわち米国とEUが内々に手を握ることによりほぼ交渉が完結しました。今回のラウンドにおいてもそのようなシナリオを日本を含めた多くの先進国は抱いていたと考えられますが、昨年9月にメキシコのカンクンで行われた閣僚会議において、開発途上国のグループとの対立が先鋭化し、交渉は頓挫しました。開発途上国のプレゼンスは以前に比べ格段に増大しており、交渉力学の変化を十分に認識していなかった先進国、特にEUの誤算であったと分析されています。通商交渉は、多くの利害が対立します。日本では農業保護が最大のネックであることは周知の事実です。私も前職において関税政策を担当していましたが、一国の交渉スタンスをまとめるだけでも相当のエネルギーを必要とするのに、EU15カ国(今後は25カ国!)の意見を集約するにはどれほどの困難を伴うか、気が遠くなります。カンクン会議の前後において、英国財務省内のWTO交渉担当者と会話する機会がありました。イギリスは前述のように、EU内では、農業保護の削減、市場の自由化促進を主張する側です。(これに対して、フランスやスペインといった農業国は保護主義を主張する側です。)イギリス政府内でも、特に英国財務省は、純粋に経済合理性の観点から発言するため、その主張は経済学の教科書に出てくるように極めて明快です。イギリスにも当然農家はありますが、政治的意思決定を支配するほどの勢力ではなく、また既に相当程度外国との競争で淘汰されているため、これらを保護することがあまり優先事項ではなくなっているということのようです。面白いことに、英国財務省のWTO交渉担当者はスペイン人の女性なのですが、彼女になぜスペインではなくイギリスの政府で働いているのかを尋ねたところ、「スペインは保護主義だが、イギリスは自由貿易主義であり、自分の思想に合っているから」という答えが返ってきました。私を含めた多くの公務員にとって、これは非常に注目すべき発言です。また、「人の移動の自由」(free movement of persons)というEUの大原則の意味をも示唆してくれるように思われます。


(26/04/2004)

ここ一週間ばかりは、英国にしては珍しく、抜けるような青空が連日続いています。気温も急に高くなり、春を通り越して初夏になったかのような陽気です。また昨年のような猛暑の夏が到来するのかどうかわかりませんが、その予兆を早くも感じさせるかのようです。

 先日、19世紀を代表する装飾芸術家であるウィリアム・モリス(William Morris)の住んでいた、Red Houseという家を見学しました。これは、英国を代表する美術館の一つであるTate Britainの主催する一日ツアーに参加したものです。Tate Britainは、以前はTate Galleryと呼ばれていましたが、テムズ川沿いに現代美術を展示するTate Modernが新設された際に改名されました。自宅からは歩いて10分ほどの近さです。英国最大の美術館であるNational Galleryがヨーロッパ全体の絵画を所有・展示しているのに対し、Tateは英国美術に特化しており、特に、ロセッティ(Rossetti)やバーン・ジョーンズ(Burne-Jones)等を初めとする、ヴィクトリア朝の絵画については最も重要なコレクションを有しています。

 ウィリアム・モリスは日本でもよく名が知られており、彼の植物を題材とした図案を用いた食器等がデパートでも売られています。モリスは、彼自身が卓越した芸術家であったのみならず、19世紀英国のヴィクトリア朝美術を語る上で欠かせないラファエル前派(Pre-Raphaelite)の創始者の一人であり、また、Arts and Craftsという運動を展開した社会思想家としても知られています。Red Houseは、ロンドンから電車で30分程度の距離にある郊外に建てられた一軒家で、モリスが結婚を機に新居として構えたものです。家はモリスの友人でありこの時代の建築家として名を残すフィリップ・ウェッブにより設計され、また内部はモリス自身のデザインによる壁紙を初めとして美術的な意匠に溢れており、芸術的にも高い価値を有しています。石造りの建物が伝統的であった英国にあって、その名が示すとおり、赤いレンガを使って建てられている点が特徴的です。また、広い庭園は、典型的な英国風庭園として、現在までもよく手入れされています。
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/8926/redhouse.html

 Red Houseを建てたモリスの夢は、郊外のこののどかな村に、芸術家と地域共同体の楽園を作ることでした。彼は、産業革命による非人間的・大量生産型の工業社会に異をとなえ、芸術(Art)を人々の日常生活にまで浸透させること、また、伝統的な手工業への回帰を訴えました。これが、Arts and Crafts運動です。モリスは、家具の一つ一つに至るまで、美的でないものは一切無いというこの家に、友人の芸術家達を週末ごとに欠かさず招き、交友を深めていました。しかし、二十代の若さでこの豪邸を建てることができたのは彼が資産家の生まれであったからに他ならず、また、この風変わりな家で毎週afternoon teaを楽しむ若い芸術家達の集まりは、周囲の農民からは変人扱いされていたようです。また、モリスのArts and Craftsの理念にしても、機械生産を拒絶した結果、製品は非常に高価なものになり、庶民に芸術を広めるという理想とは矛盾することとなったのは皮肉なことです。

 モリスは結局、数年のうちにRed Houseを去ります。その背景には様々な困難があり、彼はその後一度もRed Houseを訪れることがなかったほど、忌まわしい記憶となったようですが、その一因として、夫人であるジェーン(Jane)との関係の悪化もあったようです。(ジェーンは、モリスの友人でありRed Houseをも足繁く訪れていた画家ロセッティのモデル兼愛人という関係を徐々に深めていき、ロセッティの畢生の名作の数々にその容貌を留めています。)

 Red Houseは個人所有だったため公開されていませんでしたが、昨年、所有者の死去に伴いNational Trustが購入し、公開に至りました。National Trustは、英国内の史跡の保存を目的とする独立団体で、100年以上の歴史を有し、英国各地において200以上もの史跡や自然景観を管理しています。有名な世界遺産であるストーン・ヘンジもこれに含まれています。National Trustは、これに対する寄附金の控除など税制上の恩典は受けているものの、基本的に完全に民営の団体であり、会員の拠出金やその活動で生み出した収益に依存しています。これほど大規模な史跡保存団体が成立し、活動しているのも英国ならではかもしれません。史跡保存運動の先駆者であったモリスは、このNational Trustの発足にも重要な影響を与えたとされています。その死後100年以上を経て彼自身の住居がNational Trustより維持されることとなったわけですが、Arts and Crafts運動に示される彼の理想の一部は確実に生き続けているといえるでしょう。


(04/04/2004)

出勤途上にあるSt.James’s Parkも花で色とりどりとなってきました。急速に温かくなり、ようやく暗く長い冬の後で春が到来したのを感じます。春分の日を過ぎて、高緯度のイギリスでは日照時間が日本を上回るようになり、どんどん日没が遅くなっていきます。これから夏にかけて、最も良い季節を迎えます。

 英国財務省で私が具体的にどのような仕事をしているかについてはこれまであまりお伝えしていませんでした。私は赴任以来、英国財務省の中で金融関係の政策を扱う局に在籍し、その中で二つの課に同時に所属しています。これは、着任前に二種類の仕事の選択肢を与えられたところ、両方共興味があったので、それらを同時に担当するという選択をしたためです。建前としてはそれぞれの仕事を、半分ぐらいずつ行うということになっていますが、結局は合わせて普通の人の1.5倍ぐらいの仕事をしているような気がします。

  担当する仕事の一つは、Financial Services and Markets Act(金融サービス市場法)という、イギリスの金融サービス全般を規制する法制度についての見直しです。同法については日本でも非常に注目され、現在でも、これと同様の法制度を導入すべきであるという議論が絶えません。これについては、2月の末に一つの山場を迎え、法令の改正案についてのConsultation(日本でいうとパブリック・コメント)を公表し、現在は業界等からの反応を待つ小休止状態にあります。

 他方の仕事として、2001年にポール・マイナーズ(Paul Myners)という、投資顧問会社の会長がPension fund(年金基金)等、institutional investor(機関投資家)についての投資の効率化のためのレポートを取りまとめたのですが、このレポートで提言された各種施策の実現に関わる企画・立案に携わっています。日本では、公的年金の改革が今国会の最大の論点の一つになっていますが、イギリスでは、公的年金にも増して、企業年金の位置づけとこれに対する社会的な関心が、日本に比べてはるかに大きなものとなっています。

  こちらの方面の業務の一つのハイライトとして、先日、業界の代表者を集めて、マイナーズの提言の実現をいかに促進するかについて議論する懇談会を財務大臣官邸で開催しました。日本では伝統的に「審議会」が行政のプロセスに組み込まれ、こうした会議が恒常的に開かれていますが、イギリスでは、日本のような常駐の「審議会」的なものがあまり無く、政策を議論するためにこうした多人数の会議を主催することはそう多くありません。特に今回は、大臣の主催により財務大臣官邸で行われるということもあり、かなり「重い」会議です。さらに同様の会議を、4月から5月初めにかけてもう3回開くこととなっています。これらの会議は、大きな方向性は上司が決めたものの、具体的な運営は結局ほとんど私が一人で行うこととなり、この過程で、日本と比較して、英国の官庁の長所と短所をいろいろと体験させられました。

 日本であれば、通常、審議会や類似の懇談会が頻繁に行われているので、人選や運営についてもノウハウが蓄積されています。また、いわゆる「ロジ」に当たる部分は、私のような課長補佐レベルであれば、通常、係長、係員に相当程度委任することができます。しかし、英国財務省では、日本に比べて組織が非常にフラットで、上司の関与も軽い一方、日本でいえば係員やアルバイトにあたるような、サポート業務を主とする人員が非常に少なく、課長補佐レベルであっても「部下」と呼べる人はいません。端的にいうと日本は組織的、英国は個人的色彩が強いわけですが、今回の会議のような、物理的な業務量の多い案件になると、組織的な貧弱さに苦労させられます。例えば、大臣や幹部へのブリーフィングの作成も自分で行う一方で、日程調整、会場の確保、数十人に上る出席者とのやり取り、果てはお茶の手配や席上に置く名札の作成まで、全て自分でやらなければなりません。そして下手に他人を当てにすると、結局は自分が苦労することも痛感しました。日本の官庁の職員、特に係長・係員といったサポートレベルの質の高さ、層の厚さは、英国に比べて全く引けを取るものではなく、改めて、自分も日本ではいかに優秀かつモラルの高いスタッフに支えられていたのかを感じます。

 会議は、首相官邸(No.10 Downing Street)の隣の財務大臣官邸(No.11 Downing Street)で行われました。イギリスやヨーロッパでは通りにすべて「名前」(street name)がついており、通りの名前と、その通りの中での建物の番地で、住所が特定されます。Downing Streetはれっきとした通りの名前で、官庁街を形成するWhitehall(これも通りの名前です)から入る小道ですが、入り口は柵で囲まれており、いつも観光客がその前に人だかりとなっています。公務員であっても、今回のような特別な案件がないと中に入ることはできません。このDowning Streetの中での建物の番地が、それぞれ首相官邸、財務大臣官邸の通称となっているわけです(何故か、No.1からNo.9までは存在しないように思われます)。官邸といっても、あまり変哲のない茶色い建物に、これもどこにでもありそうな黒い扉がついているだけで、地味な外観です。内部も意外とこじんまりとしており、まさに個人の「邸宅」に招かれたかのような第一印象を与えます。イギリスでは、概して、建物の大きさ、豪華さよりも、重厚ながらも寛いだ雰囲気が尊ばれるようです。

 会議には、レポートの著者であるポール・マイナーズ氏の他、名だたる年金基金、投資コンサルティング会社、ファンド・マネジメント会社(投資顧問)の代表ら30名弱が参加しました。政府側からは、Treasuryの金融担当副大臣のルース・ケリー(Ruth Kelly)が会議の議長を務め、財務大臣のゴードン・ブラウン(Gordon Brown)、それに労働年金省(Department for Work and Pensions)や貿易産業省(Department for Trade and Industry)からも大臣が出席しました。

 Treasuryの大臣達や、他の幹部のためのbriefingは私が作成し、冒頭の大臣の挨拶等については原稿も用意しておいたものの、あとは大した助言もせず、専らルース・ケリーの采配に委ねました。財務大臣のゴードン・ブラウンは、他の分野に比べて金融分野にあまり関心があるとは言いがたく、担当副大臣のルース・ケリーに完全に任せている傾向があります。今回も彼の参加は会議の最初の方だけで、挨拶も、私の書いた要旨をほとんどそのまま読み上げていました。予算演説等、公の場で行うスピーチは全て専属のスピーチライターが書いてくれるのですが、今回のような場合は、担当者の書いた原稿がそのまま素通りし、かつ日本に比べて皆あまり細かくチェックしないので、いい加減な英語を使っていないか、やや不安になります。続いてルース・ケリーがより実質的な、会議のテーマに触れるプレゼンテーションを行いました。これも私の書いた要旨にほぼ沿って発言していましたが、さすがに中身を噛み砕いて、政治家らしいストレスの効いた口調でした。このまだ30代の女性の能力、識見にはしばしば驚かされますし、レベルの高い議論にも、何とか対処してくれるだろうという安心感があります。そもそも、大臣自身に2時間に及ぶ会議をしきらせること自体、日本ではあまり考えられないでしょう。

 会議は全体として、非常な成功に終わりましたが、準備の過程でいくつか、ロジ面での不手際がありました。実害はほとんど無かったとはいえ、日本の官庁でロジを鍛えてきた自分としてはやや忸怩たるものがありました。日本であれば二重、三重のチェックで防げていたかもしれません。ただ、そうしたミスを大して咎められることもなく、こちらの人々は細部に関しては比較的に鷹揚です。また、ミスとは言わないまでも、日本の水準からすれば会議の参加者への「配慮」はやや雑なものでしたが、結局はみんなそう困らないものです。この会議に至るまでの運営管理にしても、上司に当たる人々に実にロジ的な感覚が乏しいことを、良くも悪くも感じさせられました。

 前述のように、日本の官庁の方が組織は充実しており、個人の資質も低くないにも関わらず、組織全体として日本の方が効率的でない面が多々あるのも確かです。端的にいうと、本当はやらなくても良いことについて、労働力が浪費されている面がある、ということなのでしょう。おそらく、この個人レベルの質の高さと組織レベルの非効率性のギャップが、日本の行政を改善する上での鍵になるのではないかと直感しています。

(22/03/2004)

3月17日、財務大臣(Chancellor of the Exchequer)のゴードン・ブラウン(Gordon Brown)が来年度の予算(Budget)を発表しました。日本においてもそうであるように、予算は行政活動の基盤であり、政府の発表する文書として最も重要なものの一つです。そして当然、それを取りまとめる財務省にとっても、一年のハイライトであることは間違いありません。

英国では伝統的に、財務大臣は名実共に、首相に次ぐ内閣の重鎮としての位置づけを与えられています。ロンドンの中心部、国会議事堂へと通じる官庁街Whitehallの中程に、柵で封鎖された小道があります。これが、首相官邸のあるDowning Streetですが、首相官邸であるNo.10の建物の隣に、財務大臣官邸(No.11)があります。(実際には、No.10No.11は中でドア一枚隔てただけでつながっている。)閣僚の中でも、ここに官邸を与えられているのは首相の他は財務大臣のみです。(なお、名目上は、首相が、財務省の最高責任者である首席財務卿(First Lord of the Treasury)の称号を有しており、No.10の扉にもこの称号の表札が掛けてあります。)

予算の発表は、財務大臣が自ら国会において演説を行うことで行われます。予算発表日の朝、プレスが見守る中、歴代財務大臣に代々伝わる「Red Box」と呼ばれる赤いアタッシュケースを手に、ゴードン・ブラウンが官邸の扉から姿を現します。そして彼はこのアタッシュケースを手に、国会議事堂の議場まで歩いていきます。これも、これまで数多の大臣達が繰り返してきた慣習です。予算の内容は、マーケットにも大きな影響を与えうるということで、発表の瞬間までその内容は厳重に守られています。50年以上前、この議場への道の途上で新聞記者にその内容の一部を話した財務大臣が、わずか数十分とはいえ国会での発表より前に予算の内容を漏らしたということで、ついに辞任にまで追い込まれるという事件もあったそうです。

そして、下院本会議場において、ブレア首相以下全閣僚、さらに与党の議員達を背後にし、前方には野党の議員達と相対して、財務大臣が予算編成の象徴ともいえるBudget Speechを始めます。この演説は、非常に長い歴史を有しています。19世紀の二大宰相として歴史の教科書にも登場するグラッドストーン(Gladstone)とディズレーリ(Disraeli)は、それぞれ彼らが財務大臣であった頃にも歴史に名を留めています。歴代の財務大臣の中で最も長い予算演説を行ったのがグラッドストーンで、これは何と中断無しで4時間45分も続いたそうです。他方ディズレーリは史上最も短い予算演説の記録を持っていますが、これでさえ45分に渡っています。(なお、ディズレーリは、休憩をはさんで5時間という記録も持っています。)このように長い演説であることもあってか、この時だけは、何と財務大臣は議場でアルコールを口にすることが許されるという慣習があります。例えばディズレーリはブランデーを、グラッドストーンはシェリーを好んだとも言われています。ゴードン・ブラウンはといえば、彼が1997年に初めての予算演説を行った際に、これに対する反対討論の冒頭で、野党党首ウィリアム・ヘイグはこう述べたとのことです。「私は、この演説をしらふで(with only the assistance of water)行った財務大臣の健康を祝福する。」

演説は、昨年の12月に行ったPre-Budget Reportの演説と同様、英国経済の現状がいかに素晴らしいかを自賛する美辞麗句に満ちています。「Pre-Budget Reportにおいて私は議院に対し、現在の英国の景気拡大は、過去100年以上にわたり最長であると報告した。」

「しかし、私は議院に対して謝らねばならない。Treasuryにより詳細な歴史的調査をさせた結果、改めて報告する。現在の英国の景気拡大は、過去200年以上にわたり最長である。産業革命の開始以来、最長の景気拡大である。」

実際、46四半期連続の景気拡大、ここ4年間の平均で主要先進国中最高の成長率、過去30年で最低のインフレ率、歴史的な低失業率と、現在の英国経済が絶好調であることは否定しがたい事実です。2004年度においては3%〜3.5%の成長を予測しており、これは昨年の予算の時には楽観的すぎると批判されたのですが、結局経済は魔法のようにこの通りの姿となってきており、民間のエコノミストが、「結局は我々の誰よりもTreasuryの予測が正しかった」と敗北を認める有様です。

しかし、全く懸念が無いわけではありません。例えば、住宅価格の高騰が続いており、ややバブルの様相を呈していると言われます。また、消費者の消費意欲が旺盛で、家計の負債が膨らんでいるという兆候もあります。Bank of Englandはこれを沈静化させようと最近利上げを行い、さらに近いうちに再度利上げを行うと予想されていますが、目立った効果は表れていません。

こうした現象が、近い将来、英国経済の腰を折ることにつながるのかどうかはまだわかりませんが、いずれにしても以前の日本のバブルほど激しいものではないでしょう。また、経済の持続性に関して日本と英国で条件が大きく異なるのは、政府の財政状況です。日本の財政赤字は今や主要先進国で群を抜いて大きく、ことにここ10年程の拡大ぶりは目に余るものでした。英国の今回のBudgetの表題は「Prudence for a purpose」であり、英国でかつて顕著だった経済の乱高下を繰り返さないこと、財政規律を重視することといった、持続可能性に重きを置いています。日本でも近年ようやく、財政出動による景気刺激をあからさまに唱える声がなくなり、財政出動無しでの景気回復が実現しつつありますが、過去に築き上げた赤字の蓄積は脅威です。突き詰めると、やはり政治的な文化が中長期的には経済のあり方に大きな影響を及ぼしているのではないかと考えられます。

予算発表の日の夜は、職員の労苦をねぎらい、財務大臣自らの主催により、打ち上げのパーティーが行われます。これは、日本の財務省でも同様かもしれません。このパーティーは以前はDowning Streetの財務大臣官邸で行われていましたが、最近はTreasuryの建物の中で行われるようになっています。これは、Downing Streetでのあまりの乱痴気騒ぎに、安眠を妨げられたブレア首相の家族が苦情を言ったためだという話を聞いたことがありますが、その真偽はわかりません。





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