英国便り

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(20/06/2005)

英国は6月21日、最も昼の長い一日を迎えます。直近の週末は、土日とも30度を超える陽気で、本格的に夏の盛りに入ってきました。

 6月20日の月曜日、本年のWimbledon Championshipsが開幕しました。1877年に始まったとされるウィンブルドン選手権は、この地に端を発した近代テニスの歴史とほぼ同義であり、テニスの四大大会の中でも格別の地位を有しています。昨年、マリア・シャラポワ選手が彗星のごとく女子シングルスの頂点に昇りつめたのは記憶に新しいところですが、今年はどうなるでしょうか。

 この大会の特徴は、英国らしい芝のコートを使用することです。芝は生き物ですから当然、手入れが必要であり、常に傷みますが、独特の感触があり、英国では一般の公営コートなどでもよく芝のコートを見かけます。ウィンブルドンのセンター・コート及び第一コートは、一年の間で、この大会の時のみ使用され、後の期間は芝の養生のために費やされています。

 ウィンブルドンのゲームを観戦するには、一定の労力が必要です。センター、第一、第二といういわゆる「Show Courts」の前売りチケットは抽選制となっており、前の年の年末ぐらいまでに応募する必要があります。これに当ると、チケットを購入する権利が与えられ、代金と引き換えにチケットを手に入れることができます。抽選に際し、日付やコートの種類を予め選ぶことはできず、まさに運まかせです。ほとんどのゲームは平日に行われるため、仕事を休んででも行く覚悟が必要です。(日本ではこのようなイベントは機能しないでしょう。)私は今回、運良く当選し、初日のセンター・コートのチケットが割り当てられました。ちなみにチケットの価格は一枚32ポンド(約6400円)でした。当日券も毎日販売されますが、これらのコートの当日券入手は徹夜覚悟と言われています。また、準決勝及び決勝が行われる最後の4日間は、当日券は販売されません。一般の観衆が購入するのはGround ticketと呼ばれる当日券で、センター及び第一コートには入れないものの、第二コートの非指定席及び、他のコートへのアクセスが可能となります。

 しかし、どこにでも、不可能を可能とする仕組みは存在するものです。昨年観戦したRoyal Ascotの競馬にしてもそうですが、英国の「不平等社会」を象徴するかのように、こうした大イベントにおいては、一般客の他に特権的な観客層が存在しています。それは、主催者である全英テニスクラブのメンバーや、一部のVIPの他、企業接待(Corporate hospitality)のグループです。ウィンブルドン大会については、5年毎に債券(Debenture)が発行されており、これによる収入がコートや施設の整備資金に充てられています。現在通用しているDebenture2001年から2005年までの大会をカバーしており、保有者にはこの期間、毎日センター・コートのチケットが割り当てられ、さらに専用のラウンジ等も用意されているということです。ただし、Debentureの価格は一口23,150ポンド(約460万円)で、むしろ投資商品としての性格をもっています。一般のチケットは譲渡不可ですが、Debentureにより割り当てられたチケットは転売可能で、そのマーケットが存在しています。このようなチケットを用いて、企業接待用に観戦と飲食等がパッケージとなったツアーを販売する業者もあり、そうしたツアーの価格は、初日で一人当たり15万円超、決勝戦では50万円超となっています。ウィンブルドンのDebentureは古くは1920年から発行されていたとのことで、さすがに金融市場の先進国です。

 大会期間中は、ロンドンの市内から会場への直通バスが臨時に運行されており、私はそれに乗ってウィンブルドンへと向かいました。会場の近くには、当日券のための長蛇の列が、いつ果てるともなく続いています。チケットがあることを改めて有難く思いましたが、前述のような特権層でなくても抽選に当ればチケットを入手できるという点では、ウィンブルドンは比較的平等なイベントといえるのかもしれません。

 英国という地の屋外で行われるウィンブルドン大会は、常に天気に悩まされます。この日も午前中は雨が降り雷まで鳴っていて、どうなることかと思いましたが、幸いにして昼頃から晴れ間が見え、結局、試合の行われる午後は暑すぎるぐらいの晴天となりました。会場内には20面のコートの他、芝生に覆われたピクニック・エリアがあり、そこで皆がゲーム観戦前の昼食を楽しんでいます。ワインやシャンペン、それに、もっとも英国の夏を感じさせる飲み物であるピムス(Pimms)も目につきます。

 ここで腹ごしらえをした後、いよいよセンター・コートに向かいます。テレビでは何度となく見ていますが、実際にここに入ることには感慨があります。私の席はかなり前の方で、コートの表面がよく見えます。大会の初日、一年をかけて手入れされたセンター・コートの芝は、まだ誰にも踏み荒らされておらず、天然とは思えないような輝きを放っています。

 そして選手達が入場してきました。
 初日のセンター・コートでは、男子、女子の第一シードの選手達の一回戦が行われます。男子の第一シードは、昨年のウィンブルドン優勝者であり、文句なしに世界最強の選手であるロジャー・フェデラーです。チャンピオンだけあって、入場と同時に凄い歓声があがります。彼の対戦相手は、フランスのマチウというランキング60位の選手でした。フェデラーは最初のサービスゲームを、いきなり4本のノータッチ・エースで決め、王者の貫禄を見せ付けます。このレベルのゲームでは、さすがにスピード感が桁違いで、サービスやストロークの一打一打にも力がみなぎっているようです。マチウも善戦しましたが、結局、フェデラーが3セットを連取して、危なげなくストレートで二回戦進出を決めました。



 なお、脇役ながら、ボール・ボーイ及びボール・ガールの機敏な動きにも感心させられます。これらの少年少女は、地元の学校から選抜されるのですが、一定の走力や、テニス一般や大会自体のルールについての知識など、数々の要件をクリアしなければなりません。そして、大会の年の2月から、開幕直前の6月中旬まで、4ヶ月以上もの期間に渡ってトレーニングが行われるそうです。ネット脇のボール・ボーイ達は常に、100m走のスタート時のような姿勢で待機しており、ボールが転がると直ちに全速力で取りにいきます。また、コートの後ろに立っているボール・ボーイ達は、まるでロボットのように直立不動でボールを上に掲げ、サーブを行う選手に対して常に迅速にボールを渡せるよう体勢を整えています。しかし、フェデラーの試合中に、ボール・ボーイの一人が熱射病でダウンするというハプニングがありました。この日は、英国としては珍しいような夏の日差しが容赦なくじりじりと照りつけていました。いかに4ヶ月の訓練を積んだとはいえ、イギリス人の少年にこの暑さはきつかったのかもしれません。

 初戦終了後、一度コートの外に出ました。意外にタイトなスケジュールで、試合と試合の間は15分くらいしか休みがなく、せいぜいお手洗いに行くぐらいしかできません。コートを出たところには、何か見覚えのある(失礼ながら)ひげ面のおっさんがいました。よく見れば、野上駐英大使です。折角なので大使にご挨拶すると、どうやら彼は、煙草を吸うために外に出ているようでした。大使はこの暑いのに背広を着ていましたが、センター・コートの一角のVIP席に座っているようです。VIP用のラウンジなどあるのだと思われますが、そこは禁煙だったのでしょう。大使とは、世間話代わりにサミットの話などで言葉を交わしました。

 そして次のゲームは女子です。女子の第一シードは、昨年の優勝者であるシャラポワではなく、現在ランキング1位のリンゼイ・ダベンポートです。シャラポワの試合を見ることができなかったのは残念でしたが、これからの女子テニス界を担うシャラポワに対して、ダベンポートは引退も遠くはないため、彼女のプレイを見る貴重な機会ではあったかもしれません。対戦相手はロシアのジコバというランキング78位の選手ですが、小柄かつ細身の可愛らしい外見で、長身で骨太のダベンポートとは対照的でした。両者の力の差は歴然としており、最初のセットはダベンポートが6−0で取りました。しかし、ウィンブルドンの観衆は、劣勢な方をより強く応援するようです。ジコバがたまたま2回連続でサービス・エースを取ったときには大歓声があがりました。彼女は観客に訴えるようにして「One more?」と叫び、そしてその通りもう一本とって、そのゲームをものにしました(試合は結局2セット連取でダベンポートが勝ちましたが)。テニスのゲームにおいては、サッカーなどと比べても、選手の観客への距離の近さ、親密度が違い、選手と観客との「対話」を実感できるのも、生で観戦する醍醐味のように思います。

 この後センター・コートで更に2試合を観戦し、終わった頃には夜8時を過ぎていましたが、まだ日は暮れておらず、夕方程度の明るさです。翌日のオーダーが発表されており、センター・コートではシャラポワと、英国の期待を一身に背負うティム・ヘンマンが出場するようです。

 英国の男子トップであるティム・ヘンマン選手は、当然ながら当地では絶大な人気を誇り、「ヘンマニア」と呼ばれる熱狂的なファン達がいることで知られています。彼は1998年から2002年までの間、4回ウィンブルドンの準決勝に進出しながら、それより上には到達していません。英国の金融市場を「ウィンブルドン化」しているということがあります(もっとも、英国人が同じような言い方をしているのを聞いたことはありませんが)。これは、英国の金融市場は最も歴史があり、かつ現在でも最も競争力があるものの一つであるが、そこで活躍するinvestment bankはほとんど全てアメリカ又はヨーロッパの外国勢で、英国勢は完全に駆逐されてしまっている状況を指します。テニスのウィンブルドン大会において、外国人が席捲しており、本家の英国人はほとんど活躍していないことになぞらえたものです。しかし、英国において、「ウィンブルドン化」という言葉を使うかどうかはともかく、金融市場のプレイヤーが外資系に占められることはむしろ肯定的に受け止められています。それは、英国が重視するのは「場」としての市場の役割であり、その中で動く個別企業ではないからです。「場」が栄え、それによって国に人と金が集ってくることが重要なのであって、そこでゲームを行うのは英国出身のプレイヤーである必要はない、ということです。こうした発想は、まさしく、国籍を問わず選手達を応援するウィンブルドンのテニス大会にも通じるものがあるかもしれません。

 なお、私がロンドン市内への帰路に着く頃、シャラポワやヘンマンの人気カードのためか、既に翌日の当日券目当てで並んでいる人達がいるのには驚きました。



(07/06/2005)

6月21日の夏至を間近に控え、英国は最も日の長い時期に差し掛かり、夜9時を過ぎても空にはまだ明るさが残っています。暑さを感じることはほとんどなく、夜になると若干の肌寒さを覚えるほどです。これからの季節は、公園でのピクニックや、ガーデン・パーティー、野外での演劇やコンサート等の、夏ならではのイベントで目白押しとなります。芝のコートで行われる、世界でも最も格式の高いテニス大会、ウィンブルドン・トーナメントも間もなく開幕します。

 英国の美術の殿堂であるRoyal Academy of Artsでは、毎年恒例のSummer Exhibitionが今週から開かれています。先日、会員用のPreviewに行ってきました。これは、アカデミーのメンバーを中心とする芸術家達の最新の作品を一斉に展示し、販売も行うもので、安いものでは100ポンド(約二万円)程度から、高いものでは10万ポンド(約二千万円)を超える作品まで、広大なアカデミーの壁を埋め尽くすように所狭しと並べられています。買い手の付いた作品は、番号札にシールが貼られるのでわかる(版画のように複数のコピーが存在するものの場合、売れた数だけシールが貼られる)のですが、さすがに安いものから売れていくようです。このPreviewでは、会場内でドリンクを販売するのが特徴で、シャンパンや、ピムス(Pimms)という英国の夏の定番の酒を片手に絵画を見て回ることができます。うっかり作品の上にでもこぼしてしまったら大変なことになりそうですが。

 先日、EUの憲法(Constitution)採択が、フランス、オランダと相次いで国民投票において否決されたことが話題となりました。当然、欧州では、このニュースは大きなインパクトをもたらしました。英国では、これらの二国、特にフランスが否決したことを一番喜んでいるのはトニー・ブレア首相であろうとも言われています。彼はEU加盟国の首脳としてEU憲法の批准を支持し、先の総選挙では、国民投票の実施を公約として掲げました。英国は、単一通貨ユーロに加入していないことにも示されるように、伝統的に欧州統合に対して一歩距離を置く国であり、もし国民投票を実施すれば、英国国民は何よりも心理的な反発心から、「No」を突きつける可能性は極めて高いと考えられています。他方、それだからこそ、ブレア首相にとって、この重要な条約を国民投票無しに批准するという選択肢も政治的に困難なものでした。もし、他の大半の加盟国がEU憲法を批准した後で英国が批准に失敗するような事態となれば、英国はEU内で孤立することとなります。また、公約に掲げた国民投票に敗れれば、ブレア首相にとって大きな打撃となることは間違いなく、そのタイミングでブレアは降板し、ゴードン・ブラウン財務相に首相の座を引き継ぐ、という「シナリオ」までが想定されていました。まさに、ブレアにとってEU憲法は、ほぼ避けることのできない「鬼門」と見られていたのです。しかし、EU(旧EC)の発足当初から、ドイツと並んでその統合推進の原動力であったフランスが先に否決したことで、英国にとっては国民投票を中止する絶好の口実ができ、ブレアはEU憲法という「火中の栗」を拾わずにすむ可能性が高くなりました。英国は7月からEUの議長国を務めることとなります。EUにおいて、英国は規制緩和、農業保護削減等の「経済改革」を主張し、より社会民主主義的な政策を志向するフランスと対立してきました。今回のフランス政府の挫折は、英国がその発言力を強める方向につながるといわれる一方で、逆にフランス政府が国民の支持を回復するために強硬な姿勢に出るのではないかという見方もあります。いずれにせよ、今後のEUの行方は注目されるところです。

 話は変わりますが、先月末、職場で、Treasury Question Timeがありました。Treasury Question Timeとは、Permanent Secretary(事務次官)を初め各局局長等から成るTreasury Board(幹部会)が講堂で一同に会し、職員達と対話するというもので、年に数回開かれています。職員は誰でも参加することができ、またこの模様は省内テレビでも中継され、職員は自分の机でこれを視聴することもできます。この場では、いかなる職員が、いかなる質問を提起することも許され、最高幹部達に直接その考えを問いただすことができます。日本の官庁ではなかなかありそうもない、大胆な試みといえます。Treasuryの幹部達、そして職員達の考え方を知る絶好のチャンスなので、私はこれまでQuestion Timeには常に参加し、そして毎回質問してきました。今回は、特別ゲストとして、Treasuryの前事務次官であり、現在はCabinet Secretary(官僚機構の長。日本でいえば、事務の官房副長官に近い。)を務めるSir Andrew Turnbullが来訪し、公務員制度改革についてプレゼンテーションを行った後、質疑応答を行いました。日本でも公務員制度改革は以前から(実に長く)議論されていますが、英国では日本のそれをある種先取りするような形で近年急速に公務員のあり方が変化しており、さらに改革が進められています。英国で実施されており(あるいは以前から慣行となっており)、日本でも注目される主なものとしては、例えば以下のような事項が挙げられます。
@行政事務の民間委託の推進、行政官庁への民間企業型経営の導入
A勤務形態、人材構成の多様化
B官庁間、官民の人事交流、外部からの幹部級職員の抜擢
C公務員の人事評価方法の改革、公務員の実績評価と昇進・報酬の連動
D政治任用(Political appointment)の拡大

今回、これらの全てについて言及することは、あまりに長くなるので控えさせていただきます(興味のある方は、本サイト上にある拙稿「英国財務省について」を参照下さい)。

Sir Turnbullが現在進めている取組みの一つは、公務員の技能(Skill)の向上です。彼の構想では、公務員の技能はPolicy, Delivery, Corporate Serviceの3種に大きく区分され、これらは官庁において同等に尊重されるべきものとされます。そして、公務員は、そのキャリアの過程において、このうち少なくとも一つの技能についての専門性(specialist skill)を身につけるべきであるとしています。Policyとは政策立案で、中央官庁の官僚の職務として最も一般的にイメージされるものです。Deliveryとは、例えば国税庁のような執行部門、郵政公社のような現業部門を指します。Corporate Serviceとは、人事管理、庶務、会計といった、いわゆるバックオフィス的な機能を総称します。この構想の特徴は、第一に、いわゆるgeneralistを念頭においた、伝統的な官僚像の修正を試みるものであること、第二に、政策立案こそが行政の花形であると認識されてきた中で、執行や庶務といった機能を、(少なくとも建前上は)政策立案と対等に位置づけようとしていることです。もちろん、こうしたアプローチは全く新規のものではなく、日本でも多かれ少なかれ、政策、執行、庶務の「棲み分け」は昔から存在しています。ただ、例えば先般の社会保険庁の問題などは、この図式を当てはめれば、政策部門の知識しか無い本省の人間を、執行部門の長に据えたことが間違いだった、ということになるのかもしれません。

しかしながら、中央省庁の官僚の本領ともいえる政策立案についても、果たして官僚は専門的能力を持っているといえるのか。これは、私が日本を発つ前から感じていた、最大の疑問でした。折りしも、竹中氏が(現在は国会議員となっていますが)学者から抜擢されて一躍大臣となり、また、その竹中氏が登用した数名のアドバイザーが、金融庁において影響力を行使していた時であったことも、その背景にありました。

英国財務省においては、そもそも日本のように新卒で一斉に入省した職員がほぼ生涯を同一の省で過ごすという形態をとっておらず、いわゆる「中途採用」がむしろ普通で、幹部級職員の外部からの登用も増えています。もちろん、伝統的な公務員像は、途中で省の内外を出入りしながらも、基本的には公務を中心としてキャリアを積んでいくというものでしたが、最近は、政府での勤務経験がほとんど無い人物をいきなり局長級に抜擢する例もしばしばあります。そうした人々も、叩き上げの官僚と同等の、場合によってはより優れた業績を挙げうるわけですが、そうなると、官僚として長年キャリアを積むことには一体どのような意味があるのか、という素朴な疑問が沸きます。以前のQuestion Timeでは、この質問をそのままぶつけてみました。英国財務省の幹部達も、多かれ少なかれ同じような問題意識を持っていると見られ、後に事務次官や局長から「君は良い質問をした」と言われました。

今回のQuestion Timeでは、いわば官僚機構の代表者であるSir Andrew Turnbullがいるせっかくの機会なので、「近年のSpecial adviserの台頭が公務員の働き方を変えたと考えるか」、と問うてみました。Special adviserとは、大臣によって、官僚機構の外から直接任命される「顧問」であり、いわゆる政治任用(Political Appointee)です。英国では昔から存在していましたが、現政権では特に、首相官邸を中心にその数が飛躍的に増え、実質的な存在感も拡大しています。ゴードン・ブラウン財務相もSpecial adviserを重用することで知られ、特に彼が大臣に就任してから昨年まで首席経済顧問(Chief Economic Adviser)を務めていたEd Balls氏は、事務次官をも上回る力を有していると言われていました。このEd Ballsを含め、3人のSpecial adviserが、先般の総選挙に出馬するために辞任しましたが、彼等はブラウンの元側近として安泰な選挙区を割り当てられ、揃って当選し議員となっています。私も仕事上Special adviserを相手にすることはしばしばありましたが、このように完全に党と密着した人々が、省の中枢を握っていることには、やや薄気味の悪いものも感じます。

こうしたSpecial adviserの台頭には功罪両面が指摘されており、公務員の政治的中立性を伝統的に尊重する英国において、行政官庁の「政治化」を招いたとの批判もあります。特に、ブレア首相の側近として絶大な権勢を誇ったAlastair Campbell氏が、イラクの大量破壊兵器に関する諜報機関報告書の「脚色」を指示したとの疑惑を契機に、Special adviserの位置付けが見直されています。こうしたSpecial adviserの評価を、Sir Andrewに対し問うことは、一層興味深いものでした。それは、新聞等の伝えるところによれば、彼は本来であれば官僚機構の長として首相の第一の側近となるべきところ、Special adviserを多用する首相の性格のため存在感が薄くなり、いわば最も割を食った人物ともいえるからです。

彼はさすがに、あからさまにSpecial adviserを批判することはしませんでしたが、公務員の仕事の質は確かに変わった、とはっきり答えたのが印象的でした。もっとも、彼が意味したのは、政策立案において、公務員が競争に直面するようになった、ということです。それは、前述の、外部からの公務員登用の増加とも通じるものですが、官僚が官僚であるというだけで政策立案の権能を独占できた時代は過ぎ去り、党に属するSpecial adviserや、外部のシンク・タンク、さらには民間企業の人々に至るまで、潜在的な競争相手を常に意識しなければならないということを意味します。もちろん、官僚は政策のプロフェッショナルとして国民に雇われている以上、他の競争相手を上回る能力を発揮せねばならず、それができないのであれば、官僚の存在意義は無いといっても過言ではありません。それだけの「競争力」をいかにして保つことができるか、官庁は真剣に考えなければならない時が来ているといえます。


(09/05/2005)

 5月、英国が最も美しい季節となりました。日はすっかり長くなり、夕方に仕事を終えて職場を出ると、目の前に広がるSt. James’s Parkがやや西に傾いた太陽に照らされて光り輝いているようです。木々も芝生も青々と茂り、色とりどりの花が咲き乱れています。この時期の公園の散歩ほど素晴らしいものはありません。

 5月5日、総選挙が行われました。ブレア首相率いる労働党の、3期目の政権を賭けた選挙ですが、労働党が大勝した1997年、2001年と比べて、接戦となりました。労働党は、過去8年間、英国戦後史上でも最高といえる安定的な経済成長を維持した実績を前面に押したて、保守党時代の不安定な経済運営と対比する戦略をとりました。ブレア首相は、前回の選挙と今回との間に、政治家として大きなダメージを受けています。それは言うまでもなくイラク戦です。サダム・フセインを打倒することには成功したものの、大量破壊兵器は結局見つからず、全く誤った情報に基づいて開戦を決断していたことが後から判明するという大失態でした。労働党としては、イラク戦が選挙において蒸し返されず、争点が内政に集中することを望んでいましたが、その目論見は脆くも崩れ去りました。選挙期間中に、イラク攻撃の適法性に疑義があったことを示唆する内部文書が新聞にリークされ、大きな話題となったのです。これは、英国政府が開戦を決断する前に、首相に対して提出されていた、Attorney Generalであるゴールドスミス卿(Lord Goldsmith)の意見書です。Attorney Generalとは、政府のlawyerの長で、日本でいえば、やや位置付けは違いますが、内閣法制局長官のようなものと考えてよいでしょう。ゴールドスミス卿の意見は、戦争は適法であるとの結論であり、ブレア首相は議会や国民に対し開戦の正当性を主張する根拠の一つとしていました。しかし、実はゴールドスミス卿の意見書はもともと戦争の適法性に疑問を呈するものであり、アメリカ等の圧力でこれが変えられたのではないか、という噂がありました。この意見書を公開せよという声は以前から強く、今年施行された情報公開法(Freedom of Information Act)に基づく請求も行われていましたが、政府は公開を拒否し続けていました。国家の意思決定の根幹、また対外関係にも大きく関わる文書であり、また、lawyerのアドバイスはいわゆるlegal privilegeとして公開義務から免除される、というのが政府の立場です。このような最高機密の文書がどのようにリークされたのかは謎ですが、いずれにせよこれがメディアに大きく報道されてしまい、その騒ぎを収めるために、結局、政府は意見書を全面的に公開せざるを得ないはめとなってしまったのです。意見書は、ブレアが主張していた通り、結論として、既存の国連決議に基づきイラクを攻撃することは合法であるとしましたが、多くの留保をつけており、法廷で違法とされる可能性をも示唆していました。(この意見書が書かれた次の週に、英国は米国と共に新たな国連決議を求めましたが、それに失敗し、明確な国連のマンデートの無いまま戦争に突入することとなりました。)

 野党は当然、この機会をとらえてブレアを攻撃しました。保守党党首のマイケル・ハワード(Michael Howard)は、ブレアをliar(嘘つき)と呼び、彼がこうした重要な情報を知らせないまま国民を戦争へと導いたことを非難しました。しかし、保守党はイラク戦自体は支持しており、大量破壊兵器が無いことが分った現在でもその立場は基本的に変えていないため、舌鋒が鈍くなることは否めません。この点、第三党であるLiberal Democratsは、一貫してイラク戦に反対しており、また、反テロリスト法、IDカードの導入、入国管理の強化といった、一連の反人権的な施策にも反対している点で、労働党、保守党と一線を画し、学生などのリベラルな層を中心に支持を集めました。

 総選挙の結果は、予想された通り、労働党が過半数を維持したものの、議席数を相当程度減らしました。2001年の大勝により過半数161議席という圧倒的な優位を誇っていましたが、その優位は67議席まで削減されました。これにより、昨年わずか5票差で可決した大学改革法案のような強攻策を取ることがより難しくなると考えられます。労働党の得票率は5ポイント以上低下し、35.2%と、政権党としては史上最低の得票率となっています。最も得票率を伸ばしたのは第三党のLiberal Democratsですが、完全小選挙区制を採る英国では、第一党が得票率以上に議席を確保し、逆に少数党は得票率の割には議席が伸びない結果となります。Liberal Democratsももちろん議席を増やしましたが、彼等が労働党から票を奪い取ることによって、むしろ保守党の候補者が当選するという傾向がみられたようです。Westminster Systemと呼ばれる完全小選挙区制は、このように少数党に不公平な結果をもたらす一方で、与党の安定多数を可能としており、功罪両面があります。イラク戦については、報道の大きさほどに有権者の判断の決め手となったわけではなかったようですが、労働党の議席減少にある程度の影響はあったものと思われます。ロンドンの郊外の、イスラム教徒の多いある選挙区で、イラク戦に反対して労働党から離脱した元議員が、労働党の候補者を僅差で破って当選しました。政党本位で選挙の行われる英国において、こうした独立派が大政党を押さえて議席を獲得するのは珍しいことであり、大きな話題となりました。

 今回の選挙戦を通じて際立ったのは、ブレア首相とゴードン・ブラウン財務相の「復縁」です。選挙の始まる少し前、ブレアがブラウンとの「密約」を破って、首相としての第三期目を(途中でブラウンに譲ることなく)最後まで務めると公言したことから、両者の関係は最悪に近い状態となっていましたが、選挙戦の間は彼等の二人三脚が目だっていました。当初は、選挙後、ブラウンが財務大臣のポストから外されるのではないかという噂がありましたが、ブレアが(選挙中に新内閣の人事に言及するのは異例であるにも関わらず)これを明確に否定し、ブラウンの続投がほぼ確実となったあたりから、両者の関係が急速に落ち着いてきたように見えます。また、交代の時期はともかくとして、ブレアの後継者はブラウンをおいてないことを示唆するような発言も繰り返しています。

 他方、過去8年の経済的安定を中核に据えることとした選挙戦略の結果必然的に、この間経済運営を担ってきたブラウンの実績がクローズアップされることとなりました。また、前述の、イラク戦に関する法律意見書の公表の際には、ブラウンが即座にブレアを全面的に支持する発言をし、「火消し」に一役買うという一幕もありました。イラク戦の最中は、ブラウンは経済運営に専念し沈黙を守っており、ブレアが批判の矢面に立つ中で相対的に自らの地位を固めてきたという印象もあっただけに、この件はブラウンとブレアの新たな関係を示すものとして注目されました。

 選挙終盤には、ブレアと共に選挙区を回るブラウンの表情は、これまであまり見られないほど朗らかで明るく、一定の時期にブラウンに首相の座を譲る「密約」が復活したのではないかという推測さえ呼び起こしますが、それは今後徐々に明らかになっていくことでしょう。

 選挙の翌日の5月6日の午後、正式に財務大臣に再任されたブラウンが、Treasuryへ戻ってきました。この選挙後の「初登庁」の情報は省内に回付されており、職員達は玄関ホール付近に鈴なりになってそれを待ち構えました。Treasuryの玄関ホールは最上階まで吹き抜けになっているのですが、ホールを職員達が埋め尽くしているのはもちろんのこと、各階から、皆が身を乗り出してホールを見下ろしています。私は丁度同じ時間に、自分が主催者である大きな会議があり、どうしたものかと思いましたが、会議に出席するであろう同僚も、局長や幹部達も皆、仕事そっちのけで見物に興じており、どうせ今は誰も会議になど来ないだろう、と割り切り、そのまま群集に加わりました。やがて、ブラウンがホールに姿を見せると、一斉に拍手と歓声が沸き起こりました。ブラウン財務相は満面の笑みを浮かべて、人だかりとなった職員達と、次から次へと握手をします。そのまま中に入るのかと思いきや、わざわざ群集の奥の方まで分け入り、その場にいた全員と握手をしました。こんなに嬉しそうな彼の表情は見たことがありません。やはり、厳しい選挙戦を終えて、自らの「居城」に戻ってくる安堵感は格別なのでしょう。職員の方も、この8年間(その場にいた職員の大半にとっては、Treasuryに入省して以来)彼等を導いてきた「盟主」の帰還は、やはり心強いことであるに違いありません。



(14/04/2005)

  ロンドンも、すっかり春の様相を呈してきました。職場の前のSt.James’s Parkにも、若干の桜の樹があり、それらは開花を通りすぎて既に散り始めています。チューリップなどの花も今が見ごろです。しかし、初夏のように暑い日があったかと思えば、突然雹が降ったりする日もあり、天候は予測できません。

 最近のニュースとしては、やはり、チャールズ皇太子とカミラ・パーカー・ボウルズの結婚が挙げられますが、奇しくも、直前にローマ法王の死去という、世界にとってははるかに重大な事件が起こり、この結婚式は当初の予定より一日延期されることとなりました。

私の自宅の近くには、英国国教会を代表する寺院であるWestminster Abbeyがありますが、これと同じ通りに、英国のカトリックの総本山であるWestminster Cathedralがあります。イギリスはカトリック教国ではなく、キリスト教の信仰自体、他のヨーロッパ諸国と比べてあまり盛んとはいえませんが、このときはさすがに、Cathedralの中で首相や各党党首も列席の下、儀式が行われ、聖堂の外に集った群衆が聖歌に耳を傾けていました。

そして、4月8日に法王の葬儀がローマで行われた後、4月9日の土曜日に、チャールズとカミラはWindsorで正式に結婚することとなりました。チャールズとカミラについては、故人となったダイアナ妃を交えて、ゴシップには枚挙に暇がありませんが、現時点での当地での一般的な受け止め方としては、30年以上の長い付き合いを経て、様々な困難を耐えた末の結婚だから、暖かく見守ろうではないか、というところではないかと思います。

ダイアナが死去したのは1997年の8月の終わりですが、その時のことはよく覚えています。それは私が英国での留学生活を始めた直後のことで、Edinburghでのサマー・スクールを終えてスコットランド一周旅行に出る矢先、Glasgowでその一報を目にしました。GlasgowB&Bの食堂で、朝食時になにげなく新聞を手にとったところ、「Diana is dead」という大見出しが一面に載っていたのですが、日本のスポーツ新聞にもあるように、見出しの大文字の後に小さく「〜か?」とでも付いているような人騒がせな記事かと思いました。しかし、他の新聞にも同様の記事が載っており、さらに街の中心の公園に花束が添えられているのを見て、大事件が起こったことを実感した次第です。その直後、スコットランドにおける皇室の居所であるバルモラル城を訪れましたが、丁度チャールズ他の皇室のメンバーが城に籠っていたため、風光明媚なカントリーサイドの中に望遠カメラを構えたジャーナリスト達が張り込む異様な光景でした。

 チャールズがカミラとの結婚を発表したのは、ダイアナの死後7年以上を経てからのことで、この時間の経過が、国民の間での反発を和らげることとなったと思われます。ただ、当然ながら、それは全く異論なく受け止められたわけではありません。発表直後に議論となったのは、チャールズが後に国王となった際に、再婚者である彼が、国教会の首長(Defender of Faith)としての地位にふさわしいかどうかというものでした。英国では、伝統的に国王が国教会の首長を兼ねており、その意味では「政教一致」の原則がとられてきたわけです。しかし、国教会の起源をたどれば、こうした議論はやや滑稽なようにも思えます。というのは、国教会を創始したのはチューダー朝の王であるヘンリー8世(Henry VIII)ですが、彼が国教会を設立したそもそもの動機が、最初の夫人であるCatherine of Aragonとの離婚及び後妻Anne Boleynとの再婚を認めてもらうためであったからです。当時、ローマ教会は離婚を認めておらず、法王はヘンリー8世による離婚申請を許可しなかったのですが、ヘンリー8世はこの機をとらえてローマ教会からの訣別を果たしたわけです。ヘンリー8世は、再婚どころか、生涯において6人の妻を持ちました。そのうちの2人、2番目の妻であるAnne Boleyn及び、5番目の妻であるCatherine Howardは、不倫の疑惑で斬首されたという血なまぐさい話もあります。(ヘンリー8世の居城の一つであったHampton Court Palaceには、Haunted Galleryという回廊があり、そこではCatherine Howardの亡霊が時たまみられるといわれています。)ヘンリー8世はこのように負の側面はあったものの、類稀なる才能の持ち主で、英国史上最強の君主として認識されているのは確かです。彼の父親のヘンリー7世から、娘のエリザベス(1世)に至るまでのチューダー朝は、まさに英国がその礎を築いた黄金時代であり、チューダー朝への愛着、憧憬はイギリス人(より正確にはイングランド人)の中に強く根付いているように思われます。(なお、英国の役所用語として、Henry the Eighth Powerというものがあり、これは大臣の省令によって国会の法律を変える権限を意味します。日本では憲法上不可能な制度ですが、英国ではこれが可能であり、ヘンリー8世の絶対的な権力になぞらえた造語です。)

 そして、チャールズの結婚式を見届けた上で、英国は総選挙へと突入しました。4月11日に国会は解散され、5月5日の投票日まで選挙戦が繰り広げられます。日本における前回の総選挙は、「マニフェスト選挙」とも呼ばれましたが、その本家である英国では、まさに各党の公約(Manifesto)が最大の焦点となります。英国の各党のマニフェストはさすがに緻密であり、財政についても、どこで稼いでどこで配るか、きちんと辻褄を合わせています。また、メディアも、各政策分野において、主要政党の政策を真剣に比較・分析しているのが印象的です。

 英国においては、公務員の政治的中立性が厳格に守られています。選挙期間中は、特に、与党を含め特定の党に有利となるような行為をしないこと、また、政権交代がありうることを考慮することが求められます。選挙期間中の職務のあり方について、内閣府(Cabinet Office)から数十ページに上るガイダンスが発出されており、またTreasuryの中でも全職員を対象としたセミナーが開かれるという徹底ぶりです。例えば、選挙期間中はなるべく新規の政策を打ち出さないこと、重要なポストの任命は可能であれば選挙後に延期すること、といったことが勧められています。こうした、政党政治と官僚機構の峻別は、両者の関係が曖昧である日本の状況と比較して、興味深く感じられます。


(20/03/2005)

2月の下旬から3月の上旬にかけて、非常に寒い日が続きました。寒いといっても、零度を割るような気温ではありませんが、大陸を彷彿とさせる冷え込みであり、2月の終わりごろは雪も連日降りました。

 しかし、ここ数日間は、一転して暖かくなっています。それまでの陰鬱な天候が嘘のように、よく晴れた日が続きました。職場の前のSt.James’s Parkには、色鮮やかな花が一斉に開き、人々が早くもピクニックに繰り出しています。つい数日前までは皆、真冬のコートを着ていたのに、今はTシャツで外を歩いている人さえ見受けられます。長い冬がようやく明け、草花が息づいているようにさえ感じます。もっとも、変わりやすいイギリスの天候ですし、夜などはまだ冷え込むので油断はできませんが。

 こうした季節の移り変わりを最初に感じたのは、3月16日の水曜日、ちょうど予算(Budget)の発表日のことでした。家を出た瞬間に、まるで春の香りに包まれたように感じたことを記憶しています。この日の昼から、ゴードン・ブラウン財務相による予算演説(Budget Speech)が行われ、同僚達と共に、カフェテリアに備え付けられたプラズマ・スクリーンでその模様を聴取しました。こちらに着任してから、Pre Budget Reportと合わせて、4回目のブラウン財務相のスピーチであり、さすがに聞き慣れてきたように思います。

 今回の予算における焦点は、5月初旬と予想される総選挙を間近に控え、ブラウンが打ち出す「選挙向け施策」の内容でした。当然与党としては、有権者に受けのよい減税や歳出の追加策を講じたいところです。しかし、ブラウンの手は微妙な財政状況に縛られていました。結局彼は、全体としては財政緊縮的な方針を維持しながらも、年金生活者や、貧しい家庭にターゲットを絞った支援策を打ち出し、難しい状況の中で賢明な選択をしたと評価されています。

(詳細は下記参照)

http://www.ginkouin.com/kaigai/eikinkyo/5/ei5.htm

 

 より注目されるのは、5月の総選挙の後、何が起こるかです。与党労働党が政権を維持し、ブレア首相が3期目に入ることはほぼ確実視されていますが、ブレア首相のライバルであるブラウン財務相の去就が最大の論点となっています。ブレア首相とブラウン財務相の間には、ブラウンがブレアの党首・首相就任をバックアップする代わりに、どこかのタイミングでブレアがブラウンにその地位を禅譲する密約があったことがほぼ公然の事実として信じられています。それを前提として、イラク戦等で疲弊したブレア首相が、2期目を終えるタイミングで首相の座を降りることがまことしやかに予想されていましたが、昨年、ブレアが、3期目を最後まで務める意思を明らかにし、それに憤慨したブラウンとの関係が一気に悪化したといわれています。いずれにしても、現時点でブレアに代わりうる存在としてはブラウンをおいていないのですが、総選挙後に予想される内閣改造において、ブラウンが財務大臣に留まるのかどうか、判断が分かれています。既にブラウンは8年間財務大臣を務め、財務大臣としての在任期間は戦後最長となっています。その間、経済運営においては、史上最高といってもよい業績を上げていますが、これには多分に、良い経済のサイクルに巡り合せたという幸運の要素もあると考えられています。今後、経済・財政状態はこれまでに比べれば悪化することが予想されるため、好調なうちに財務大臣を退いた方が賢明なのではないかという見方もあります。果たして今回の予算がブラウン財務相の「最後の予算」になるのか、当のブラウンと、ブレア以外の他者には、推し量る術はありません。いずれにせよ、英国財務省においては、ブラウンのいない状態は想像のつかないほど、近年における彼の存在感は絶大であり、もし財務大臣が替わるようなことがあれば、業務に与える影響は多大なものがあると考えられます。

 

 Budget Speechの翌日、英国財務省内で、恒例の打上げパーティーが行われました。そして、ブラウン財務相自らが、職員達をねぎらい、スピーチを行いました。今回のBudgetの中で発表された施策の目玉の一つとして、規制による負担の軽減が挙げられます。そのプログラムの一貫として、現存する31の規制機関を、7つに統合することが発表されました。中々日本では考えられない大胆な改革を、いとも簡単に行ってしまうのがこの国の特徴です。その施策になぞらえて、ブラウンは言いました。「今日のワインの質が悪かったとしたら、申し訳ない。私がWine Standard Boardを廃止してしまったからだ。」

 

 ブラウンはジョークを連発した後、やや真面目なモードに入って、職員達へのねぎらいの言葉を丁寧に語りました。そして、最後の閉めとして、厳粛なおももちで切り出します。

Certainly, this is the last Budget Speech...

重大な発言を予感し、満座が、一斉に息をひそめました。

...written by Beth Russell.

Beth Russellというのは彼のスピーチライターで、ブラウンはこれまで良い仕事をしてくれた彼女への送別の辞を以てスピーチを締めくくったわけですが、自分自身のやや微妙なネタで巧みに受けをとるあたり、流石にユーモア感覚が豊富な政治家です。

 

 最近日本では、ライブドアによるニッポン放送買収の話題で持ちきりのようですが、連日、TOBであるとか立会外取引といった言葉が一般の間で飛び交うのはやや異様なようにも見えます。本件に関して立ち入ったコメントは控えますが、傍観者の視点からは、「最強の権力」マスメディアの中でも、まさに最強を誇るフジテレビが、一個人に揺さぶられているのは、面白い光景です。他方で、こうしたマスメディアを動かしうるのは、規制でもモラルでも無く、剥き出しの資本の暴力しかないのかもしれません。

 本件は、英国の新聞でも記事に出たことがありました。以前、UFJと巡って東京三菱と三井住友が争った時もそうでしたが、こうした事件は、日本の企業社会の変化の兆しとしてとらえられているようです。

欧米では、敵対的買収というのは珍しいことではありません。しかし、今回の日本におけるほどの熱狂ではないものの、大規模な企業買収についてはニュースになることは確かです。先日話題に上ったのは、ドイツ証券取引所による、ロンドン証券取引所の買収提案(これらの証券取引所は株式会社化している)でした。ロンドン証券取引所は世界でも最も歴史の古い取引所であり、現在でも国際金融センターとしてのロンドンで中心的な地位を占めています。しかし、このような取引所でさえも、ビジネスの拡大のために買収されることを積極的に検討し、また当局や国民からも、感情的な反発があまりみられないのが面白いところです。結局、この話は頓挫したのですが、その原因は、ドイツ証券取引所側の株主である機関投資家が、買収のビジネスとしての有効性に疑問を呈し、逆にロンドン証取側は、ドイツ証取が示した買収価格が低すぎるとして難色を示したことにあります。証券取引所のような準公的機能を有する機関でさえも、株式会社として、純粋に資本の論理で議論をしているところが興味深く思われます。

 ヨーロッパでも、国境をまたいだM&Aがますます盛んとなっており、こうしたM&Aの基本的なルールの枠組みを定めるTakeover Directiveが先般採択され、現在英国ではその施行へ向けた検討が進められています。私も以前、こちらでの業務で、TOBに関する規制の見直しに関わったことがありますが、英国はヨーロッパでも特に効率的なTOB規制を有していると自負しており、その状態を維持することを主眼においています。ここで特徴的なのは、英国は自国の企業が買収の対象になりやすいかどうかということは気にしておらず、むしろ企業買収に使いやすくかつ公正・透明な市場を整備し、そうした取引が英国市場を用いて行われることを重視していることです。

 いずれにせよ、市場のあり方は、各国とも、自国の伝統・慣習と、国際的な潮流とのバランスに配意した検討が求められる分野です。日本でも、今回の事件を契機に、議論が進むことが期待されます。


(06/02/2005)

2月4日、5日にかけて、G7財務相・中央銀行総裁会合がロンドンにおいて開催されました。

http://www.hm-treasury.gov.uk/otherhmtsites/g7/g7_home.cfm



  G7とは、世界の主要先進7カ国−日、米、英、仏、独、伊、加―を指し、これらの国が回り持ちで議長国を務めています。英国で行われるのは、1998年以来7年振りのことです。このG7にロシアを加えたG8の首脳会合が、いわゆる「サミット」で、これは夏にスコットランドのGleneaglesで開催されますが、それに先立つG7は、いわば「経済のサミット」といえます。

会議の日程は密度が高く、4日(金曜日)の夜にワーキング・ディナー、5日(土曜日)にワーキング・ブレックファスト、本会合、さらにワーキング・ランチが組まれています。正式な出席者は各国の財務大臣、中央銀行総裁及び財務大臣代理(Finance Deputy)で、これに、IMF専務理事、世界銀行総裁、ECB(欧州中央銀行)総裁及び、EU議長国(ルクセンブルク)の首相が加わります。ロシア及び中国からも財務相・中央銀行総裁が招かれていますが、この両国はG7のメンバーではないため、本会合には出席することができず、ワーキング・ディナーやランチのみの参加となっています。

日本からの出席者は、谷垣財務大臣、福井日銀総裁、それに財務省の渡辺財務官ですが、谷垣大臣は国会のため初日は欠席し、二日目からのみの参加となったのは残念なことです。米国のスノウ財務長官が病気のため両日とも欠席という例外を除けば、他国の代表は皆、当然のこととしてフルに参加しています。G7は、日本が、世界第二位の経済大国として正当な発言権を与えられる数少ない場の一つであり、いわばアジアの代表としてその存在感を発揮しうる稀な機会です。国連安保理では常任理事国であるロシアや中国も、経済のサミットであるG7においては、未だに正式な出席権を与えられていないことに鑑みれば、日本がその貴重な権利を十全に行使しないのはもったいないことです。国会審議を軽視するつもりはありませんが、年に何度とない重要な国際会議のために、一日ぐらい財務大臣の審議出席を免除することが何故できないのか、国益の観点からは首を傾げたくなります。

 私は、ホスト役である英国財務省(Treasury)の担当チームを支援するボランティアの一員として、今回のG7に参加しました。役割は、日本代表団との間の連絡調整を中心に、運営・進行の手伝いをすることです。私と同様に、ボランティアチームのメンバーは、各国の代表団にそれぞれ連絡担当として割り当てられています。私の場合、代表団(つまり財務省)自体の出身であるということがやや特殊ですが、他にも、中国担当には香港出身者、イタリア担当にはイタリア出身者、フランス担当には、フランス財務省出向経験のある同僚という具合に、概ね適材適所の体制がとられています。

 会場のLancaster Houseは、バッキンガム宮殿付近に建ち並ぶ邸宅の一つで、19世紀の姿を変えることなく残存している希少な史跡です。外務省が管理しており、専ら政府関係の行事に使われています。G7当日の金曜日、イベントの開始は夜からですが、私はボランティアチームの同僚と交代制でインフォメーション・デスクに詰めていなければならないため、午後2時過ぎ頃、早々と会場入りしました。インフォメーション・デスクは開いているものの、まだこの時間から来ている代表団は全くおらず、館内にいるのは、英国財務省の同僚達のほかは、下見を兼ねて私と一緒に会場入りした、日本大使館の人達のみです。インフォメーションに座っていても、誰も尋ねてくる人はなく、案外暇なものでやや拍子抜けしました。ボランティアチームの同僚達も雑談にふけるのみで、記念写真を撮っている者までいます。

 しかし、夕刻、日が落ちる頃から、大広間にテレビカメラ用の照明が燈され、徐々にそれらしい雰囲気になってきました。各国代表団の先遣隊がちらほらと出入りするほか、いち早く、本日のディナーにゲストとして招かれているロシアの財務大臣も到着し、もの珍しそうに辺りを見回しています。

 そして、No.11 Downing Street(英国財務大臣官邸)で行われていた大臣代理レベルの会合(GD)が終わり、その参加者達がLancaster Houseに移動してくるあたりから、にわかに館内が活気づいてきます。渡辺財務官及び、日本の財務省のメンバーも到着し、私は彼等を日本代表団に割り当てられた控室に案内しました。また、いよいよ、各国の財務大臣達も集り出しています。

 午後6時を回り、G7公式イベントの最初の瞬間が近づいてくると、私達は、予め指示されたとおり、正面玄関を囲んで、人が付近に出入りできないようにブロックしました。一台の車が玄関の前に止まり、その中から、今回のG7のホスト、財務大臣Gordon Brown(ゴードン・ブラウン)が現れます。そして、それに少し遅れて、もう一台の車が止まると、ブラウン自身がその中から下りてきた人物を迎えます。車の中から現れたのは、本日の特別ゲストとして招かれた、Nelson Mandela(ネルソン・マンデラ)氏でした。マンデラ氏は、老いて弱々しい足どりでありながらも、周囲を包み込むような、柔らかな威厳を発していました。ブラウン財務相に肩を支えられて、マンデラ氏はGraca Machel夫人と共に、各国財務大臣達(谷垣大臣の代理である渡辺財務官を含む)の待ち受けるGreen Roomへと向かいます。特別イベントとして企画された、このマンデラ氏と大臣達とのFireside chatの始まりを以って、2005年のG7は幕を開きました。

 Mandela chatと並行して、中央銀行総裁達のレセプションが行われます。丁度私は、日銀の事務所から福井総裁がLancaster Houseへ向かったとの一報を受けて、玄関付近で待機しました。そこに一台の車が止まりましたが、現れたのは、福井総裁ではなく、アメリカのAlan Greenspan(アラン・グリーンスパン)FRB議長でした。神話的な威名を轟かせるグリーンスパン氏に続いて、現れたのは、中央銀行サイドのホストであるMervyn King(マーヴィン・キング)イングランド銀行総裁です。そして、三度目の正直で福井総裁が車から下りてきました。私は総裁を先導して中央階段を登り、レセプションの行われているState Drawing Roomへと導きます。そこにはキング総裁が待っており、すぐに福井総裁を認識して談笑を始めました。これで私のとりあえずの任務は終了です。

 Fireside chatが終わった後、マンデラ氏と大臣達はレセプションの方へ合流し、そして程なくしてレセプションも解散しました。今回、出口へと向かうマンデラ氏をエスコートしたのは、グリーンスパン議長でした。「神」が「鉄人」に肩を貸す、珍しい光景です。

 そして、財務大臣、中央銀行総裁、財務大臣代理達が一同に会しての、ワーキング・ディナーが始まりました。G7の公式プログラムの開始です。この間、段取りを巡って、日本の代表団とTreasuryの事務方との間で、ちょっとした悶着がありました。あまり面白い話ではないので詳細は省きますが、一見些細なことながら日本側にとっては重要な問題だったのです。私も、日本の財務省の室長と共に、担当者であるTreasuryの同僚と談判し、日本側の主張を懸命に伝えましたが、その後Treasuryの同僚からは、「あなたはTreasuryのために働いていることを忘れていないか?」とたしなめられました。確かに、私はつい、日本側に立って「交渉」してしまっていたことに気付き、率直に陳謝しました。それは、現在では英国側の職員である私の立場を超えた行為であり、軽率であったと反省しています。各国との連絡調整を担うボランティアチームの他の同僚と異なり、私の場合は、カウンターパート(日本政府)がまさに自分の出身母体であるという点で特殊ですが、このような関係は意思疎通における利点がある一方、利益相反も生じやすいため、自己規律が一層重要であると認識しました。

 こうした騒動を除けば、会議進行中は内部の様子は外から窺い知れないため、案外皆手持ち無沙汰なものです。ワーキング・ディナーに参加しない、各国代表団の事務方や、Treasuryの事務局のスタッフには、別室にビュッフェ方式の料理が用意され、いつでも食べられるようになっています。まだ会議室内では激しい議論が繰り広げられているであろうにも関わらず、事務局の人々までワインを飲み出し、気楽なものです。先ほど、私が議論した、事務局の一人が、何事もなかったかのようににこやかに近づいてきて、ささやくように言いました。「あのBread and Butter Puddingは素晴らしいから食べてみなさい。」たしかに、他の料理は月並みな中で、Bread and Butter Pudding(典型的なイギリスのデザート)は稀に見る出来栄えであり、その点について他の同僚とも意見が一致しました。

 初日の会議は、予定時間を大幅に超過し、11時近くになってようやく皆が会議室から出てきました。さらに、大臣代理クラスが別室に残って議論を続けており、12時近くになっても、終わる気配がありません。日本の代表団は課長レベルが二人待機していますが、他国は、ドイツ人を除いて、部下はさっさと引き上げてしまっているようです。Treasuryの同僚も、Lancaster Houseにそのまま泊り込む人々以外は皆去ってしまいました。私も、さすがに「付き合い残業」はほどほどにして帰ることにしました。後で聞いたところによると、日本の課長の一人は結局完徹になってしまったそうです。

 翌日は、早朝からNo.11 Downing Streetでワーキング・ブレックファストの後、財務大臣達がLancaster Houseへとやって来ます。ゴードン・ブラウンも今度はいち早く到着しました。そして、空港からワーキング・ブレックファストに直行していた谷垣大臣が、ついにLancaster Houseに足を踏み入れました。大臣は、大広間に入ると、しばし豪奢な装飾を賞玩するかのように足を停め天井を見上げた後、中央階段を登り、そして段上に待つゴードン・ブラウンに迎えられます。他の大臣達や、中央銀行総裁達も続々と集結し、G7の本会議が始まりました。最終的な声明へと結びつく、最も重要なセッションです。

 会議は午後1時半まで行われ、声明が決定された後、ゲストとして招かれた中国の代表団を交えてワーキング・ランチに入るという段取りです。実際、ほぼ予定通り会議は終了し、中国の財務大臣等の一行が入ってきました。中国は現在はまだG7の正式なメンバーではないものの、最も関心を集めている国であることは間違いありません。

 正式な会議は終了した今、代表団の事務方の関心は、いつ声明の最終版を入手できるかということです。これをいち早く本部に転送し、正式に発表される前に、記者会見や応答要領等の準備をする必要があるからです。英国の事務局内で文面の作業が行われている気配はあるものの、じりじりと時間が過ぎていきます。そうした中、日本の財務省から、突然、一点確認してほしいという依頼がありました。NHKの情報として、当日3時半に予定されている議長国記者会見が、2時45分に早まるという噂があるというのです。議長国(すなわち英国)の記者会見は、声明が最初に発表される機会であり、G7の声明は為替市場等にも大きな影響を与えるため、そのタイミングは極めて重要です。その時点で既に2時を回っていましたが、そのような話は全く聞いていません。近くにいた、Treasuryの広報担当者の一人をつかまえて問い質すと、「自分はそうなると思うが、確認してみる」というのです。こんな大事な情報を、周知もせずに「そうなると思う」どころではありません。程なく、別の広報担当者に確認がとれ、私はこれを確認情報として財務省と日銀の本部に伝えました。間もなく、Treasuryの事務局から正式に、各国代表団にこの時間変更を伝えるように指示がなされましたが、誰も時間変更の理由はわかりません。そして、わざわざ時間を繰り上げたにも関わらず、2時45分を回っても、記者会見どころか、まだ会議すら終わっておらず、声明の文面自体出来ていないのです。結局、会議が終わり、声明が印刷され、記者会見が始まったのは、当初の予定時間とほとんど変わらない有様でした。

 もちろん、このような急な時間変更に各国のプレスが直ちに対応できるはずはなく、2時45分の時点で記者会見場にいたのは、NHKと、日本の大使館の担当者だけであったそうです。それにしても、主催者側の事務局内ですらごく一部の者しか知らなかった時間変更の情報をいち早くキャッチしたNHKは恐るべきものですが、その先見が災いして、日本勢だけが待ちぼうけを食わされる結果となってしまいました。

 今回、英国側の職員として国際会議の準備に携わってみて、やはりロジスティクス面でのいい加減さを改めて感じました。上記の記者会見の時間変更は、おそらく事務方のコントロールしがたい事情があったのだと思われますが、他にもいろいろとずさんさが目立ちました。例えば、初日のNo.11での財務大臣代理レベルでの会合の後、Lancaster Houseまでの移動は、Treasury側が車を手配することになっていたのですが、実際にはこれが行われず、大臣代理達は、自らタクシーを拾うか、又は歩いて行くはめになったようです。日本側は、この点について事前にTreasuryから明確な確認を得ていたため、敢えて自ら配車しなかったところ、それが裏目に出る結果となりました。日本であれば、これはちょっと考えられない失態ですが、他方、英国の感覚では、「別に大した距離ではないのだから良いではないか」ということかもしれません。日本の場合、特に車に関する段取りにうるさく、車は会場にどのようにして行き着けるか、車はどこに停めておけるのか、といったことを事前に把握しておきたがります。しかし、英国の同僚はこうしたことにわりと無頓着で、当日まで、どこに駐車場があるのかさえはっきりしない有様でした。他にも問題点をあげれば限りないのですが、英国財務省の同僚も、ロジのレベルの低さを率直に指摘しています。もっとも、日本のロジの細かさはやや行き過ぎの面があり、それが勤務時間の増大につながっていることは否定できないと思われますが。

 今回のG7の主要なテーマは、アフリカを中心とする最貧国の支援でした。これは、議長国である英国、とりわけ議長であるゴードン・ブラウン財務相個人が特に力を入れている課題ですが、今回の会議も含めて、基本的に、英国が大胆な提案をし、米国、日本等、他の国々が慎重論を唱えるという構図となっています。日本では、英国におけるほどこのテーマへの関心は高くなく、G7終了後の日本記者団との会見でも、質問は為替に関するものばかりでした。もちろん英国も、純粋な博愛主義のみからこうした主張を行っているわけではなく、様々な国益も絡んでいるわけですが、一般的な社会のあり方として、Oxfamなどの慈善団体が強い政治力を持っており、貧困国の救済を訴えることが得票に結びつきうるという点が日本と異なっています。日本ではやはり、票にならない海外より、票に直接結びつく国内の地方への支援の方に傾きがちでしょう。ただ、会議中、壮麗なLancaster Houseの大広間において思ったのは、こうしたイベントに、各国が、交通費やホテル代等も含めて莫大な出費をしながら、アフリカの貧しい子供達をいかにして救うかという議論をしていることに、やはり何か違和感を覚えざるを得ないということです。



(10/01/2005)

  新年となりました。今年も宜しくお願いします。

 年末年始はロンドンで過ごしましたが、クリスマスから年明け一週間ほどは、当地にしては珍しいほどの好天に恵まれました。クリスマス前後はかなり気温が下がったときもありましたが、雪が降るまでには至りませんでした。大晦日は、以前は何のイベントも無かったものでしたが、最近は花火が打ち上げられていると知り、深夜11時頃から自宅を出て、歩いて10分程度の場所にあるParliament Squareに向かいました。通常であれば、夜は人影も無い閑散とした界隈ですが、この日は深夜にも関わらず至るところを人々が歩いており、Parliamentに近づくにつれ、人口密度が急激に高くなっていきます。Big Benの脇を過ぎ、テムズ川と対岸のLondon Eyeを見渡すことのできるWestminster Bridgeの上まで来ると、ロンドンのどこにこれほど人がいたのかというぐらい、まさに立錐の余地なく人の波がびっしりと路上を埋め尽くしています。まだ、年が明けるまで1時間もあるのに、シャンパンのボトルを振りかざす人や、サッカー観戦用の笛を吹き鳴らす人など、お祭り騒ぎの様相です。Big Benの針が、1115分、1130分と、一年の残り僅かの時を刻んでいくのにつれ、異様な歓声が上がります。テムズの対岸には、シェル石油の大きなビルが聳え立っていますが、このビルの壁面に光で大きく様々な模様が投影されており、また、その隣の大観覧車London Eyeは、夜空の暗闇の中を、赤や青のライト・アップでほのかに照らしています。時刻は1145分を回り、そして、残り10分、5分と、年明けが近づいてきます。Big Benの二本の針がほぼ重なりかけたとき、シェル石油のビルに投影された光が、「59」を表すデジタルの数字に変わりました。この場所で、どのようにしてカウント・ダウンを行うのかと思っていましたが、中々考えたものです。カウントが10を切ったところから、「Ten, Nine..」と群集が唱和しだします。そして、カウントがゼロとなった瞬間、テムズの川面から巨大な花火があがりました。花火の発射台は川の広い範囲に渡っており、さらに、驚くべきことにLondon Eyeのホイールからも一斉に火花が噴射されるのです。イギリスの花火など日本人にとっては子供だましのようなものだと思っていましたが、このときばかりは、夏の東京湾にも匹敵するものであったかもしれません。

  さて、2005年はイギリスにとって大きな年です。まず、5月に、4年ぶりの総選挙が予定されています。与党労働党が政権を維持することは確実視されていますが、イラク戦などによりブレア首相の政治的資源が相当に消耗した中、労働党がどの程度の議席数を保てるかが焦点となっています。また、選挙を目前にしながら、ブレア首相とそのライヴァルであるブラウン財務相の確執は一層激しくなっていると伝えられており、ブラウンの去就がメディアの関心事となっています。

  このような政治状況の中、昨年末、一人の大臣が辞任しました。内務相(Home Secretary)のデヴィッド・ブランケット(David Blunkett)です。内務省(Home Office)とは、日本でいうと警察庁と法務省の入国管理局を合わせたような役所で、その担当大臣であるブランケットは、ブレア政権が最も力を入れているテーマの一つである犯罪抑止や、物議を醸している移民政策、IDカードの導入等について中心的な役割を果たしていました。生まれながら目が不自由でありながら、盲導犬を連れて閣議に臨む彼は、最も尊敬されている政治家の一人であり、ブレア首相の最大の盟友でもあります。

彼の辞任は、一つのスキャンダルを巡るものでした。ブランケットは独身ですが、かつて、ある既婚の女性ジャーナリストと交際し、子をもうけるにまで至りました。その後、この女性との関係は切れましたが、子供を巡るトラブル等を女性が大衆紙に暴露したため、メディアの大きな話題となっていました。ここまでであれば、単なる私的なゴシップに止まっていたのですが、ブランケットの大臣としての高潔性に関わる二つの事実が明らかとなりました。一つは、ブランケットが、この女性を同伴した際に、公費で列車の切符を購入したというもので、これは本来、政治家の正式な配偶者にしか認められないものでした。これについては、ブランケットが陳謝し、切符代を弁償して落着しました。

しかし、もう一件はより重大なものでした。ブランケットが女性と交際中に、彼女の雇っていた家政婦の滞在許可(ヴィザ)の延長について、その所掌大臣としての権限を利用し便宜を図ったのではないかという疑惑です。この家政婦の申請については、一度、当局から一年程度かかると言われたところ、ブランケットが交際相手からこの件を相談された後、通常無いほどの速やかさでヴィザが下りたという事実が認められました。問題は、ブランケットがこの件について介入したか否かです。彼は、身の潔白を証明するため、財務省(Treasury)の元事務次官であるSir Alan Buddを指名して、独立の調査を依頼しました。その調査の結果、本件の申請について、ブランケットの秘書室から入国管理の担当者に、「No favour, but a bit quicker」(特別扱いは無用だが、少し急げ)と指示する電子メールが送信されていたことが発覚したのです。ブランケットが裏で直接これを指示したのかどうか、真相は闇の中ですが、いずれにせよ彼の秘書室の介入があったことを踏まえ、ブランケットは辞任を決断しました。

この事件に対する世論の反応は様々で、私の同僚の中でも意見は分かれていましたが、共通していたのは、裕福でない家庭から、障害を持って生まれながら大臣という地位にまで登りつめたブランケットという政治家の資質は、本件によって否定されるものではないということです。また、相手の女性が、いわゆる「セレブリティ好き」のジャーナリストであったこともあって、同情はむしろブランケットの方に集まっていたといえます。

私がまず率直に思ったのは、この程度のことであれば、日本の政治家など皆やっているのではないか、ということです。ブランケットが介入したといっても、問題の家政婦のヴィザが少し早く下りただけであり、日本であれば、それほど目くじらを立てるほどの不正とは見なされなかったかもしれません。この点、この国の倫理の厳しさを感じるように思います。また、もう一点、やや不満であったのは、そもそも本件の原因となった、英国のヴィザの手続の遅さ、非効率性を指摘する論調があまり見られなかったことです。英国のヴィザについては昨年から厳しくなり、入国の際に空港の係官からその場で発給を受けるといったことが不可能となりました。滞在中にヴィザを延長するためには、必ず、パスポートを申請書類と共にHome Officeに送付して手続を行わなければならず、既にWork Permitを取得しておりほぼ自動的に滞在許可が下りる案件でも、パスポートが戻ってくるまでに何と平均8週間もかかるのです。私もこのために、昨年の夏はしばらく英国内に足止めとなりました。この手続の遅さは当然、外国人を雇用する英国の企業にとっても障害となっており、すでに英国内に滞在している人を雇用するよりも、むしろ国外から連れてきた方が早いという皮肉な状況になっていると言われます。これは在外公館の方が本国より迅速に手続を行うためで、日本人も、英国内では8週間かかるところ、東京の英国大使館に行けば即日ヴィザを取得することが可能です。こうした入国管理の問題は、その性質上、制度を改善する力を持っている当該国民には、その問題の所在が認識されにくいというジレンマがあります。(日本の場合も、在留する外国人からすればいろいろと不満があるのかもしれませんが、私も不勉強にしてあまり了知していません。)

ブランケットの辞任に伴い、文部大臣であった人物がその後任となり、そして文部大臣には、Treasuryの金融担当副大臣(Financial Secretary)として私が昨年まで仕えていた、ルース・ケリー(Ruth Kelly)が一躍抜擢され、話題となりました。36歳の彼女は、女性閣僚としては英国史上最年少であり、マーガレット・サッチャーがやはり文部大臣として初入閣したのが45歳であったことと比較して、早くも彼女を将来の首相候補の一人に挙げる論調さえあります。四児の母親である彼女が、「家族」と「育児」の支援を政策の柱とするブレア首相の総選挙戦略に合致するということも、この人事の背景にあると見られています。

2005年はまた、イギリスが、国際的な舞台となる年です。2月にG7財務相・中央銀行総裁会議がロンドンで開催され、7月にはスコットランドの景勝地GleneaglesでG8サミットが行われます。また、7月から、EU議長国をも務めることとなります。2月のG7のホスト役はTreasuryであり、各国代表団との連絡役を務めるボランティアが募集され、私は、日本担当の連絡役を引き受けることとなりました。Buckingham Palaceの向かいにあるLancaster Houseという建物で会議は行われますが、先日、他のボランティアの同僚達と共に、その下見に行きました。各国代表団に割り当てられたボランティア達は、私の他、フランス人、ドイツ人、香港人なども含む、多国籍のチームです。改めて、外国人が当然のように参画する、この国の役所の面白さを感じます。




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