英国便り

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(25/06/2006)

 三年間に渡る英国財務省への出向も、ついに終わるときが来ました。この三年間は、自分にとって様々な経験に満ちた、密度の高いものでしたが、過ぎてしまうと早いものです。以前二年間の留学から帰国した際、あたかも渡航前からの日本での生活がそのまま続いており、長い夢から覚めたかのような気がしたものですが、今回の英国での日々も、あたかも夢の中の出来事のように記憶することとなるのでしょうか。

 丁度三年前の今頃、面接を受けに英国財務省を訪れた時のことを思い出します。少し早く着き、St.James’s Parkのベンチに佇みながら、案内役の先輩を待っていましたが、夏の陽光に煌く水面と木々のあまりの美しさに、非現実的な場所に来た感覚でした。

 そして、毎朝、この公園の側を歩いて出勤することができたのは、私にとって大きな幸運でした。私は朝起きて出勤までの間に執筆活動や自分の勉強をすることが多かったのですが、早朝からの一仕事で重くなった頭も、公園の緑と新鮮な空気に触れるとたちまち活力を取り戻し、リフレッシュした状態で仕事に臨むことができました。St.James’s Parkの季節それぞれに、さらに朝、昼、夕、夜と移り変わる風景は、どれほど心の癒しとなったかわかりません。出勤途中に、リスや、はてはペリカンを見かけることが東京で考えられるでしょうか?

 今は、一年で日の最も長い時期です。英国が最も輝く季節にほかなりません。こうした時にはより英国を去りがたく感じますが、他方、その最も美しい姿を見納めとするのも悪くはないかもしれません。 

 英国財務省で勤務を始めた初日、午後5時くらいから次々に同僚達が荷物をまとめて去っていってしまうのに驚かされたものでした。午後6時を過ぎ、まだ真昼のように明るい執務室は既に閑散とし始めています。人々はパブでビールを片手に談笑し、あるいは公園で芝生の上にのんびりと寝そべって、長い夕方を楽しんでいます。同じ頃、日本の官僚達は、冷房が切れた蒸し暑い室内で、仕事の「後半戦」に突入するところかもしれません。

 この違いはなぜ生まれるのか。これが、私が三年間を通じて探求してきた最大の疑問であったといっても過言ではありません。政治制度、行政の意思決定過程、そして組織の文化と人々の精神。それぞれ、この「英国便り」の中でも繰り返し言及してきましたが、これらの全てが絡み合い、相互に作用し合っていることが、徐々に垣間見えてきました。 

 英国では日本と比べて、何事をするにも、その目的と、それを達成するために必要なコストに関する意識がはっきりしているように思えます。例えば、日本の官僚の勤務時間が長い理由のひとつとしてしばしば、国会審議への対応が挙げられます。国会に対する準備は膨大で、官庁の側からは制御不能な業務の最たるものですが、連日長時間の審議を行うこと自体が目的化し、一種のパフォーマンスとなっている面があります。しかし、政府の活動に対する民主的なチェックがその本来の目的であるとすれば、その主旨を維持しつつも、その方法、手続をより合理的なものとする余地はいくらでもあると思います。審議を行うことの意義のみならず、それに伴い議員、大臣、官僚が時間を費やすことのコスト面にも目を向け、適度なバランスを模索する必要があります。

 英国は、議会制民主主義の母国とも言われ、国会審議も活発に行われていますが、政治家同士の議論が中心であり、政府から証言を求める類の審議は日本と比べて頻度が少なく、また焦点、目的を絞って行われます。

他方、日本では、審議の結果として法案が修正されるのは稀であるのに対し、英国では、政府提出法案といえど成立までに多くの修正を受けるのが普通です。その意味では、国会の「立法府」としての権能は英国においてより発揮されているともいえます。 

 行政の意思決定過程にしても、日本の官庁は非常に緻密な仕事をしますが、それが最終的な成果(outcome)、すなわち国家、国民にとっての便益にどれだけ貢献しうるかという、本来の目的を見失いがちであるように思います。例えば私が日英の両国で経験した予算編成にしても、日本では毎年、査定のために財務省、要求官庁とも膨大な作業を行い、主計局は文字通り不夜城と化します。これに対して英国では、具体的な経費の使途は各省庁に大きく分権されており、私の目から見れば、実に大雑把な予算の決め方をしています。しかし、健全な財政バランスの確保という、財政当局の究極の目標に関しては、英国の方がこれまではるかに高い成果を上げているのは注目に値します。

 もちろん、仕事というものは、求めればいくらでもきりがありません。しかし、それが何を目指すのか、目的意識をはっきりとさせる必要があります。私が英国財務省での業務の一環として他省の担当者に資料の作成を依頼すると、「何のためにそれが必要なのか」という問いをしばしば受けました。日本では、予算査定当局であれ、国会議員であれ、あるいは職場の上司であれ、より優位にある立場の者から仕事を頼まれた場合、いかなる手間をかけてもこれに応じなければならないという雰囲気があります。しかし英国では、常に仕事に関するコストの意識があり、それに費やす労力は、得られる便益に比例的なものでなければならないという観念が根底にあるように感じます。また、仕事に関する「持ち場意識」が明確で、自分がどこまでのサービスをする義務があるかを、比較的ドライに考えます。こうした面が、日本人からすれば、時にはサービス精神の欠如に見えるのですが、いかなるサービスも、誰かがどこかでそのコストを負担していることは忘れてはならないでしょう。これは国会と官僚の関係、官僚同士の関係、あるいは日々の生活、いかなる局面にもあてはまることです。

 私の目から見て、日本人、中でも日本の行政官は有能かつ献身的で、決して英国にもひけをとるものではありません。むしろ、行政官のプロフェッショナルとしての意識は日本の方が高いともいえます。しかし、それだからこそ、こうした人々の能力とエネルギーが、最良でない使われ方をしていることに、改善の必要性を強く感じます。国会、官庁を含め、我々は、パブリック・セクターの内側で人的・時間的資源を使いすぎています。国民への便益という本来の目的に、どうすれば有限の資源を最も効率的かつ効果的に振り向けることができるか、それこそを真剣に考えなければなりません 

 そして、英国財務省のリラックスした勤務環境は、そこで働く人々の意識を反映しています。政治と行政、大臣と官僚との役割分担がはっきりしており、最終的な意思決定の権限と責任は大臣にあることをわきまえているため、幹部を含め、英国の官僚は良くも悪くも肩の力が抜けたところがあります。また、「個人」への信頼が確立していることも、意思決定に費やす手間が少ないことの一因でしょう。例えば、大臣へ上げる政策ペーパーも、担当者が自分の個人名で書きます。その担当者自身のペーパーであることがはっきりしているわけです。もちろん、もちろん、上司を含めた関係者からペーパーへのコメントを受けますが、それをどのように反映させるかについては担当者に裁量があり、一言一句、関係者一人一人と順を追って合意していくといった手続は必ずしもとられません。

 個人の尊重は、職場の文化にも色濃く表れています。英国財務省では、自分の仕事さえきちんとこなしていれば、何時に来て何時に帰るかは各人の自由です。もちろん、会議などがあれば出席する必要がありますが、その時間は通常予め決まっているので、自分の時間をほとんど自分でコントロールすることが可能です。何か用事があれば、普段より早く帰ったり、あるいは年休を取ったりすることも気軽にでき、誰もその理由を詮索したりしません。私の同僚の中には、週に一度は自宅勤務としたり、あるいはそもそも休みとしてしまっている者も何人かいました。各人の事情に応じた勤務体系が容認されているのです。 

 これは、以前にもこの「英国便り」で言及した「多様性」(diversity)にも通じるものです。「多様性」とは、私がかつて、英国財務省の印象を一言で表すとすれば何か、と聞かれた際に挙げたキーワードです。英国財務省には様々なバックグラウンドの人々が働いており、外国人も珍しくはありません。同僚達は、私を他の英国人と同様に、チームの一員として接してくれますが、正直なところ、自分は最後まで、彼らと全く同じように溶け込み、振舞うことはできなかったように思います。仕事上の関係はともかくとして、酒の席やランチなどの会話では、英語力の不足もありますが、それを超えて、一種の埋めがたい心理的な距離をどうしても感じます。しかし時が経つにつれ、それはそれで良いのだと割り切れるようになってきました。英国人の中でさえ、人付き合いの仕方は人それぞれで、皆が同じように打ち解けているわけではありませんし、またそうした「差」に特に頓着していません。私は日本という、彼らにとって比較的馴染みの薄い国から来た人間であり、彼らと「違う」のは当然です。そして、彼らと「違う」ことこそが、私の彼らにとっての価値でもあるのです。違うものを違うものとして受け入れる、それこそがまさに「多様性」であり、そうした懐の深さが、英国が未だに世界から人々を惹き付ける理由であるように思います。

 それぞれの人が、他人の目を気にすることなく、それぞれの生き方をすることができる、それが英国の「個人主義」です。例え、不便な点はいろいろあっても、なお英国の暮らしに魅力を感じる日本人の多くは、そうした個人主義の中に、日本とは一味違った心地よさを感じているのかもしれません。

日本は非常に便利で豊かな国です。世界に名だたる工業技術を持つのみならず、公共交通や飲食店を始め、多くの分野について、英国と比べればはるかに質の高いサービスを安く提供しています。デパートは夜遅くまで営業し、コンビニに行けば、24時間、食べ物から雑貨まであらゆるものが調達できます。海外にいると、日本では当たり前だと思っていたものが実は当たり前ではないことを知り、改めて日本の良さを感じます。しかしながら、そうした高度なサービスを提供し、消費者の要求に応えるためには、誰かがその分どこかで働かなければなりません。巡り巡って、社会全体が、お互いにお互いを忙しくし合っている面もあるのではないでしょうか。英国と比べて、どちらの社会が良いモデルなのかはわかりませんし、正解は無いでしょう。しかし、夏の公園で芝の上に皆で腰を下ろしてピクニックをしたり、あるいはカントリーサイドに出掛けて、牧草地の中の散歩道をきままに歩いたり、英国で何気ない素朴な楽しみを覚えると、月並みな言い方ながら、日本人は何かを忘れていないか、という気がしてくるのです。日本人は、もう少し肩の力を抜き、楽に生きることができるのではないでしょうか。人生の楽しみ方について、英国人に学べることは多いと思います。 

他方、私は日本人の優秀さ、可能性をいささかも疑っていません。その勤勉さ、向上心において、日本人は英国人や世界のほかの人々を比べてもひけをとることはないでしょう。今回の滞在中、私はロンドン近辺在住の日本人を対象とする勉強会を企画し、月一回程度の会合を行っていました。最初はささやかに、パブの片隅で数名から始まった勉強会も、時とともに拡大し、メーリングリストは100名にも達しました。途中からは新規の参加者の積極的な募集を止めたのですが、それでも口コミで広がり続け、毎回必ず初めての方が数名おられました。また、私は日本でも勉強会を設立しましたが、こちらでは皆、日々の激務の最中、わざわざ週末を費やして参加しています。このような、業種を超えた日本人の友人達の、向上への意欲、熱心さには、非常に感心し、また心強く思います。

私の当面の願いは、日本の行政、官庁を、より効率的で心地よいものにしていくことにありますが、日本人がその美点を失わず、同時に英国や他国の長所をも取り入れていくならば、改善、改革は必ず成し遂げることができると信じています。他国に学び、それを応用してさらに発展させていくのは日本人が昔から得意とするところです。

今回、英国への着任当初から、日本の知人向けの近況報告として始めたこの「英国便り」ですが、このように長く続き、また多くの方々に好評をいただくとは思ってもいませんでした。皆さんからのコメントは、私にとっての励みであり、またそこからも多くのことを学ばせていただきました。このささやかな活動が、ほんの少しでも日本を良い方向に変えていくきっかけとなるならば、それに勝る喜びはありません。 

長らくご愛読有難うございました。「英国便り」はこれを以て終了させていただきます。日本で皆さんにお会いするのを楽しみにしております。